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平成の虚無僧一路の日記

善悪合わせもつ無僧の取締りと解禁 

2020年06月13日 外部ブログ記事
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虚無僧が「神君(家康公)のお墨付」と称してきた『慶長の御掟書』が偽造とされ、虚無僧が断罪されたのは、江戸時代も末の末、1847年(弘化四)のことでした。これは明治維新の21年前です。きっかけは、美濃(現岐阜県)の芥見村で、甲州乙黒の明暗寺と浜松の普大寺の虚無僧による、縄張りをめぐっての闘争事件があり、死者まで出たことからでした。その取調べの過程で、虚無僧寺の家宅捜査を行ったら、無宿人や遠島(おんとう=島流し)になったはずの者のたまり場になっていて、女を囲い、飲む打つ買う三昧の乱れた風紀だったことから、一斉に捕らえられ処罰されます。
「一月寺、仏に遠き人ばかり」という川柳があります。虚無僧本寺の一月寺は、女を囲い、飲む打つ買う三昧のていたらくだったからです。明治政府が、明治4年に「普化宗」の廃絶と、尺八を吹いて托鉢行脚をすることも禁止したのは、この流れにあります。昭和25年まで、旧憲法の下では、虚無僧はご法度だったのです。
「信教の自由」で法律で解禁されるのは昭和25年以降のことなのです。
虚無僧の善悪合わせもつ性格は、すでに鎌倉時代の末に書かれた『徒然草』にも見られます。
虚無僧の同類とみられる「暮露(ボロ)」について
ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍(とうじょう)を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。
「仏道者でありながら争いを好む」と。
昭和30年代まで、大坂あたりでは、飲み屋を門付けして、一曲追分なんぞを吹いては法外な金をせびるゴロツキ虚無僧がいて、虚無僧は嫌われ者でした。ボロならぬゴロです。
さすが、現代の虚無僧は 至極真面目な人ばかりですが、本来、虚無僧の教義は「善も悪もない、善悪合わせ持つ」ものと私は考えています。それが「明暗」の解釈です。

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