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葵から菊へ
御前会議は宮中地下防空壕の一室に参集し、かくて八月十四日を迎えた。
2020年08月14日
テーマ:テーマ無し
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〔鈴木貫太郎内閣迫水久恒書記官長の手記から〕
かくて八月十四日を迎えた。早朝、首相は私と打合せを終えるとすぐ参内され、経過を陛下にご報告申上げた。そして首相が官邸に帰ると間もなく、全閣僚および参謀総長、軍令部総長、平沼枢密院議長にただちに参内するよう陛下よりお召しがあったのである。最高戦争指導会議の幹事たる内閣書記官長以下四名も、ともに参内すべき旨であった。
折よく閣議の予定をもって全閣僚は首相官邸に集っていたが、同衣服を改める暇なきため、特にお許しをうけて平服のまま参内し、前回の御前会議と同じ宮中地下防空壕の一室に参集したのである。間もなく陛下がお席につき、ここに前例なきお召しに基づく御前会議が開かれることになったのであった。十時五十分である。
会議はまず、首相による前回の御前会議以後の経過報告にはじまり、参謀総長、軍令部総長および陸相より、「先方の回答は甚だ不安にして、わが国の最後の一線たる国体護持も困難なるごとく思われる。もし改めて連合国側に対して問合せをなすことを得るならば、これを確かめたい。もしそれが不可能ならば、かくのごとき不安なる状況において戦争を終結するよりも、むしろ死中に括を求め戦争を継続すべきと思う」旨の、それぞれが声涙ともに下る切論があった。
無気味な静寂がしばし流れた。やがて、陛下が口を切られた。
「ほかに意見がないならば私が意見をいう。私の意見は去る九日の御前会議に示したところと変らない。先方の回答もあれで満足してよいと思う。」
陛下はしばらくお言葉を切られ、純白の手袋をはめられたお手にてお眼鏡を拭われていたが、また言葉をつがれた。
「私自身は如何になろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う。この上戦争をつづけては、結局、わが国は全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、私としては忍びない。少しでも種子が残りさえすれば、また復興という光明も考えられる」と。 また、こうも仰せられた。
「この際、自分の出来ることは何でもする。国民はいま何も知らないでいるのだから突然このことを聞いたら定めし動揺すると思うが、私が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前に立つ。ことに陸海軍将兵は非常に動揺するであろう。陸海軍大臣がもし必要だというのならば、自分はどこへでも出かけて親しく説き諭してもよい。
列席者一同は陛下のお言葉のはじまると間もなく、ただ慟哭するのみであった。私は、自分は常に国民とともに再建に努力する、とも仰せられた時には、敗戦という悲しみを越えて、新日本の黎明をすら感じた。いまほど、陛下をわれら国民の中に拝したことはない、陛下はわれわれの陛下であり、そのお言葉のとおり陛下は国民と共にあられるのだ、と閣僚一同は御前を退下した後に語り合うのであった。
午後一時より閣議が開かれ、聖慮のとおりを閣議決定とした。ついで私が主任となって終戦の詔書の草案起草に着手した。実は、終戦に関してはその詔書の起草を政府にご下命あるべきを察して、去る九日の御前会議のお言葉をそのまま基礎として一案を草していたのである。それをさらに本日のお言葉をもって修訂増補し、用語、表現、体裁を整えて起草を了し、閣議の承認を経て陛下のご前に提出した。すでに午後九時を過ぎていた。
こうして午後十一時、大詔は換発せられ、ただちに連合国に対しポツダム宣言を受諾する旨通告して、ここに大東亜戦争は終ったのである。
若き陛下と無私の老首相との君臣一如の関係は、実にわが国未曽有の国難に際し、国家の滅亡をその一歩手前で救ったのである。閣内においては、米内海相が簡明率直に所信を披瀝し、しかも断乎邁進されたことは力強い限りであった。阿南陸相は終始、戦争継続の方向にて熱烈な論を吐かれたが、しかしあくまで内閣の方針に従って最後の決定まで揮然たる一体に帰した。そして直後に真に武士らしき作法にて自刃されたのである。私は、その正々堂々の人格を、心から敬慕するものである。また東郷外相は終始強き信念を持し、比対論を排して毅然たるもののあったのも、まことに頼もしい所であった。(太字は管理人)
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Blog記事陸軍省の機密書類は74年前の8月14日から焼却が始まったをご覧下さい。
(了)
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