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平成の虚無僧一路の日記

会津藩でも「奇兵隊」 

2020年08月25日 外部ブログ記事
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「奇兵隊」といえば、高杉晋助が率いた長州の農民部隊。しかし「奇兵隊」をWikiPediaで引くと「会津藩にも“奇兵隊”があった」ことになっている。詳細は書かれていない。どうやら、「正規の武士ではない、農民・町人から成る隊の呼称」として「奇兵隊」をとらえているようだ。8月22日、西軍が母成峠を破って、猪苗代に侵攻してきた時、会津藩としては、正規軍が越後、日光口に出払って留守のため、農民、力士、僧侶まで狩りだし、戸の口に向かわせた。その隊名は・「奇勝隊」 正奇隊(正規侍の意)、 半士半農の地方(じかた)御家人 ・「修験隊」 山伏、修験者 ・「力士隊」 力士 ・「僧侶隊」 僧侶       ・「農町兵 新錬隊」義勇兵、士分 ・「敢死隊」 郷頭、肝煎、代官、支配役 その数 約500人ほどという。しかし、所詮、鉄砲など撃った事もない寄せ集めの烏合の衆。どうやら、塹壕堀りに狩り出されたようだ。正規兵は「白虎士中二番隊」の 50名のみ。牧原の祖「牧原奇平」は、60歳で郡(こおり)奉行だった。それで、半士半農の地方御家人を駆り集め「奇勝隊」として戸の口へ向かった。名前が「奇平」というので「牧原奇平隊」と「奇兵隊」を混同したのではないだろうか。
牧原奇平の墓
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会津戦争では牧原一族で8人も亡くなっている。
私の直系の曽祖父「牧原源八郎」は、「奇平」の従弟。家督を継ぐ惣領以外は、「ごく潰し」。会津郊外の北会津村二日町村の郷士「新田治助」宅で、寺子屋と医術開業をしていた。そして西軍来たるの報に、従弟の「牧原奇平」に呼び出されて、戸の口が原に向かった。まさに「地方御家人」としての出陣だった。
そして西軍の猛攻に為す術なく。奇平は自刃。源八は左腕に鉄砲玉を受け、奇平を介錯して退却。二日町村の新田宅に帰った。
二日町村は 城の西二里(8km) 。敵はまだ西には来ていなかった。
源八は新田家にかくまわれ、一か月後 戦争は終わった。源八は正規の藩士ではなかったため、猪苗代に収監されず、また翌年の斗南藩への移住も対象外となった。新田家は相続人がおらず、源八はそのまま新田家の跡を継ぐこととなった。
源八は晩年になって、腕の中から鉛の鉄砲玉が出てきた。
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