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「臣下と旧皇族は別である」靖国神社二百四十六万余柱の一座と北白川宮能久親王と宮永久王の二柱は別の一座 

2020年10月06日 外部ブログ記事
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靖国神社社報「靖國」10月号が配達されました。表紙に傍線を引いておきましたが秋季例大祭当日祭は10月18日日曜日なので、是非「勅使参向」を見学してください。(勅裁社一覧)を見ても、現在も靖国神社は「別格の神社」であることを理解して頂けると思います。
勅使参向がある神社(勅裁社)伊勢神宮の豊受大神宮及び皇大神宮明治神宮橿原神宮熱田神宮香取神宮平安神宮宇佐神宮近江神宮鹿島神宮香椎宮春日大社出雲大社賀茂別雷神社及び賀茂御祖神神社石清水八幡宮氷川神社靖国神社


社報には8月15日の参拝客は24,000人だったとありました。2019年は49,000人、2018年は64,000人でした。元靖国神社禰宜宮澤佳廣著「靖国神社が消える日」によると、「8月15日に現在のように一般参拝者が詰めかけるようになったのは、2000年代にはいってからだ。01年4月、自民党総裁選挙で『終戦の日に靖国に参拝する』と訴えた小泉純一郎氏が首相に就任し、この年の8月13日に参拝。翌々日の参拝者は約12万5千人で、前年の2倍に跳ね上がった。その後いったん落ち着いたものの、戦後60年の05年には約20万5千人に、小泉首相が8月15日当日に参拝した翌06年は25万8千人を記録した。この年をピークに、以降は15万〜19万人を行ったり来たりしている。」
現在遊就館特別展では「靖國神社と刀剣」が開催されていますが、北白川宮能久親王の遺品である指揮刀と共に、台湾でマラリアに罹って寝台の代わりとされた「仁海宮」の扉板(高さ3・3b)も展示されています。
社報の紹介記事から
「能久親王は留学中、軍事学や語学を修められ、ご帰国後も来日する国賓を多数お迎えになるなど国際的にご活躍されましたが、その一方で、明治二十八年、日清戦争講和のため締結された下関条約で、清国より割譲された台湾を平定するため近衛師団長として出征されました。 現地では清軍の残兵などの激しい抵抗に遭いつつも、台北から南へと軍を進められますが、マラリアを発症され桃園(とうえん)市中?(ちゅうれき)にある仁海宮にご宿泊の際、同宮の門扉を外して長椅子の上に置き、寝台の代わりとされたのがこ扉板です。? その後ご病状が悪化し、台南にて薨去(こうきょ)されますが、親王を御祭神として祀る「台湾神宮」をはじめ約六十の神社が創建されました。また親王の御遺品が宝物として各神社に安置され、この扉板も仁海宮にて大切に保管されました。それから約五十年後の昭和二十年、大東亜戦争終結後に台湾の神社はすべて取り壊されますが、親王の御遺品は、現地の人々が各所にて建物の屋根裏に隠すなど大切に保管しました。その後、時の流れとともに人々の記憶から消えつつあるなか、台湾からの引揚者の証言などをもとに親王御遺品の返還事業が始まります。昭和三十五年、軍帽や軍服の返還にあわせてこの扉板も北白川家に寄贈された後、遊就館に奉納されました。」

「遊就館図録」特別陳列室より
皇族の御祭神靖國神社には北白川宮能久親王、北白川宮永久王二柱の皇族が合祀せられている。近衛師団長・陸軍大将北白川宮能久親王殿下におかせられては明治二十八年、近衛師団を率いて台湾に御出征中、台南において薨去(こうきょ)せられた。陸軍砲兵少佐北白川宮永久王殿下におかせられては昭和十五年、駐蒙軍参謀として御出征中、張家ロにおいて薨去(こうきょ)せられ、昭和三十四年御祖父能久親王と共に合祀せられた。
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立命館大学名誉教授赤澤史朗著「靖国神社」から

『 旧皇族戦死者とは二人の北白川宮(一人は台湾征討中に、一人は日中全面戦争期に蒙疆で死亡)のことであり、このうち一柱は台湾神宮の祭神であったが、敗戦とともに台湾神宮は廃止されており、一九九五年十月の臨時大祭で靖国神社に二柱とも合祀された。この合祀に関しては、戦後の靖国神社には別格幣社の社格がなくなり、臣下のみを祀る神社としての性格がなくなったため、皇族も合祀できるようになったからという説明がなされている。しかしその合祀に当たっては宮内庁長官宛てに合祀「奉斎に関する御願」を提出し、宮内庁掌典長を通じて合祀の「お許し」が出てから合祀をおこなっている。しかもその間、宮内庁掌典長を通じた示唆に基づくいて、数百万の臣下のための「従前の御代座」とは別に、「新なる御霊代(神鏡)」「一座を設け」て、そこに北白川宮二柱を祀ることとしたのであった(「昭和三十四年の臨時大祭(第八十六回合祀)『百年史』上。? ? この決定には、あるいは天皇の意向も働いたのかもしれない。戦後に「臣籍降下」したはずの元宮家の祭神の合祀とその方式に、天皇の私的使用人である宮内庁掌典長を通じて許可を得るという手続きの中に、靖国神社側と宮内庁側の双方にある、戦後の厳格な政教分離体制を否定しようとする意識が示されているといえよう。さらに旧皇族二柱のためだけに特別の「一座」を設けるという祀り方にも、死んだ後にも臣下と旧皇族は別であるという考え方が見られ、戦後の民主的な国家体制と不適合な「慰のあり方が見られる。』(太字は管理人)
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社報に崇敬会の会員のみに頒布するとの告知がありますが、社報を読みたければ崇敬会に入会してくださいという「会員拡大」の躍起となっている神社の姿勢が見えてきます。

(了)

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