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平成の虚無僧一路の日記

山崎の合戦で明智光秀を破ったのは秀吉ではなかった 

2020年10月12日 外部ブログ記事
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『キリシタン教会と本能寺の変』慶応義塾大学文学部教授 浅見雅一著 角川新書 
浅見一教授は1962年生まれ、慶応義塾大学文学部卒、専門はキリシタン史。
私の後輩。素晴らしい研究を成し遂げてくれた。
ルイス・フロイスを始め、当時日本に来ていた宣教師達が本国ポルトガル
に送った書簡を解明。外国人が織田信長、明智光秀、そして本能寺の変をどのように見ていたかがわかる同時代の一等史料だから大変興味深い。
明智光秀がなぜ主君信長を討ったのか。怨恨説などさまざまあるが、どれも、それで主君を討つ理由としては決定打ではない。光秀は本城の坂本も、長年苦心して治めた丹波亀山も召し上げられ、四国攻めに向かうよう命じられる。その信長の真意は「明智光秀の誅殺と明智家の滅亡」にあったのではないか。信長が光秀を誅殺しようとした理由は「徳川家康を謀殺せよとの命令に光秀が反意したからではないか」。
これについては、明智光秀の子孫で私の慶応高校の級友である明智憲三郎君が書いている。
甲斐の武田家を滅ぼして信長としては、もう三河の徳川家康は用済となった。むしろ目障りな存在である。信長としては家康を誅殺して三河・遠近も自分の支配地にしたいと企み、家康が京都に来た折に、光秀に殺せと命じた。光秀はそれに反対したため、信長の怒りをかった。そして光秀は家康に信長の真意を漏らしたため、家康は命拾いした。そのことで、家康は明智光秀に大変な恩を感じた。
それが、本能寺で信長を討った斎藤利三の子利宗を旗本に召し抱え、その妹春日局を登用した理由につながる。
日光東照宮は二荒山だったのを家光は「日光」と改めた。「明智日向守光秀」だ。陽明門の両端は金剛力士像ではなく、武人。それも明智の桔梗の紋。
という次第。
浅見雅一も、「単なる怨恨ではなく、光秀が信長から誅殺されようとしていた。明智家の滅亡」という危機に直面して、「やられる前に殺らねば」という窮状にあったのではと書いている。
さて、宣教師たちの報告では、光秀は本能寺の変のあと、安土城にはいり、信長が収集した金銀財宝のすべてを身分の上下にかかわらず分け与えた。内裏や公家、寺社にも莫大な金を献上し、すぐ京へ引き返したとある。
そして最期。一般には、秀吉が大返しで飛んで帰り、山崎で明智光秀を討ったことになっているが、宣教師の報告では、
秀吉軍は疲れきって休息しており、高山右近が光秀軍と偶然に山崎で遭遇し、光秀軍を破った。その後も光秀の本城坂本を攻めたのは高山右近であると書いている。高山右近と光秀が不仲であったことも書簡から伺い知れる。これには驚き
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