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平成の虚無僧一路の日記

門野幾之進 

2020年12月12日 外部ブログ記事
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千代田生命の創業者・門野幾之進は 安政3(1856)年、鳥羽藩家老 門野豊右衛門の長男として、鳥羽に生まれる。
明治2年、鳥羽藩貢進生として慶應義塾に入学、同4年には早くも十五歳にして英語教師として塾生を指導することになり、ボーイ教師とあだ名された。塾の教頭を務めるまでになっていたが、明治35年に教職を辞し、同37年に千代田生命保険相互会社を創設。さらに同41年に第一機関汽罐保険、同44年に日本徴兵保険、大正2年に千代田火災保険、同9年に千歳火災海上保険を設立し社長を兼務した。
その経緯については、門野幾之進は入学してわずか二年で教師になるほど、生真面目な学究肌であったため、不勉強な学生を許さず、試験で60点以下は落第(留年)とする学則を定めた。それに学生が反発し、試験をボイコットされる騒動が起き、辞職することとなった。それで福沢諭吉の勧めもあって実業界に転じたという。
実は、この門野幾之進が定めた「60点以下は落第」の制度は今も続いていて、私は大学二年の時、一般教養の英語で60点に満たず、一年留年する羽目になった。英語の試験というのは、教師がぺラペラと英語でしゃべり、それを筆記するヒヤリングのみ。6割も書きとれなかったという次第。
JR・近鉄鳥羽駅から徒歩四分、三重県鳥羽市鳥羽一の十の十八(旧岩崎町)の門野家跡に鳥羽市歴史文化センターがあります。昭和59年、千代田生命が鳥羽営業所に併設して「門野幾之進記念館」を建てたもの。その後、千代田生命が倒産したため、鳥羽市に売却され、今は鳥羽市市立の「歴史文化センター」になっている。
 平成23年記念館がリニューアルされ、門野幾之進の「生い立ち」「慶応義塾のボーイ教師」「福沢諭吉のもとで」「千代田生命の創立」「晩年」「郷里への思い」と六つのコーナーに分けられ、幾之進の遺品、彼の筆による「源泉滾々」の額、福澤諭吉から贈られた『時事小言』などが展示されている。

建物の左には昭和十三年七月に除幕した「門野幾之進誕生地の碑」がある。この碑の後ろには、門野幾之進・同重九郎両先生を讃える小泉信三の文章を記した碑がある。門野重九郎は、幾之進の弟で、和田塾(後の慶應義塾幼稚舎)に入学、慶應義塾本科を卒業後、帝国大学に進学、大倉組副頭取、東京商工会議所会頭を務めた人物である。
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