メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

西郷頼母と養子四郎 

2011年09月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



志田四郎の養父西郷頼母(たのも)(1830-1903)とは?。

先祖代々会津藩筆頭家老の家柄。幕末、藩主松平容保が
「京都守護職」を拝命した時は「火中の栗を拾うもの」と
反対し、藩主の不興をかった。戊辰戦争となると、白河口の
総指揮を任されたが 敗れ、一子「吉十郎」を連れて米沢に
向かう。これは、「反戦論者の西郷を、藩主容保が退けた
ため」とも「米沢に救援を依頼」に行ったとも言われる。

その間、西軍が城下になだれこみ、西郷の一家、祖母、母、
娘21人が、自宅で自刃した。

西郷頼母は、その後、函館戦争にも加わり、敗れて幽閉された。
後、1875年(明治8年)福島県棚倉町の「都々古別(つつこわけ)神社」
の宮司となる。

1877年(明治10年) 西南戦争が勃発すると、西郷隆盛との仲を
疑われ、宮司を解任される。(偶然だが、戊辰戦争で西軍の
総指揮官が「西郷タカモリ」。迎え撃つ会津藩の筆頭家老が
「西郷タノモ」。尚 「西郷隆盛」の本名は「吉之助」。
「頼母」の一子は「吉十郎」。偶然か。

1879年(明治12年) 一子「吉十郎」が病没する。頼母は、
戊辰戦争で 妻も娘たちも失っており、これで身寄りが
いなくなった。

翌 1880年(明治13年)頼母は、日光東照宮の禰宜(副宮司)
となり、日光に移る。旧藩主「松平容保」が日光東照宮の
宮司になったため、その補佐役をかって出たのであろう。

さて、では いつ養子を迎えたのだろうか。

「志田四郎」が、講道館に入門したのは、明治15年(1882)
17歳の時。講道館に残されている「四郎」の柔道着には
「志田四郎」と書かれているのだ。

「西郷頼母」は、1887年(明治20年)には 日光東照宮の禰宜を辞し、
大同団結運動に加わる。会津と東京を拠点として政治活動に加わり、
代議士となる準備を進めていたが、大同団結運動が瓦解したため、
政治運動から身を引き、郷里の若松(現会津若松市)に戻った。

1889年(明治22年) 現福島県伊達市霊山町にある霊山神社の
宮司となった後、郷里の会津に戻り、1903年(明治36年)死去。
かつて 2,500石の禄を食み、鶴ヶ城の大手門前に広大な邸宅を
構えていた「西郷頼母」は、最期は、長屋に独り住まいし、
淋しく亡くなった。


養子の「西郷四郎」は、嘉納が洋行中の1890年(明治23年)、
『支那渡航意見書』を残し講道館を出奔。以前から交流のあった
宮崎滔天とともに大陸運動に身を投じる。

義父「頼母」が亡くなる前年、1902年(明治35年)、鈴木天眼が
長崎で『東洋日の出新聞』を創刊すると、同新聞の編集長を務める
傍ら、長崎で柔道、弓道を指導した。

そして、1922年(大正11年)、妻の実家のある広島県尾道で、
病気療養し死去した。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ