メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

尾張名古屋の再評価 

2011年09月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



『尾張藩幕末風雲録−血らずして事を収めよ』(渡辺博史)
 ブックショップ・マイタウン 2,650円

この本は、名古屋人の気質の“特殊性”を教えてくれる。

「名古屋検定試験、その?『名古屋城は誰が建てたか?』
「大工さん」ではない「徳川家康」が正解。

名古屋城の築城は慶長12年(1607)。これは家康の関東入封
から17年後。「関が原の合戦」から7年後。「大阪滅亡」の
7年前。

つまり、名古屋は、西国への備えとして新たに造られた
「軍事都市」だった。大垣−岐阜を通る「東山道(中山道)」と
桑名から海路を熱田に来る「東海道」の要衝を守るために
造られた。

「軍事都市」だから、“よそ者”の往来を許さず、江戸
初期においては、商業も文化も栄えなかった。「名古屋は
文化不毛」というのは、このスタート時にある。

それが一転するのは、100年後。8代将軍「吉宗」に
ライバル心を燃やした 尾張7代藩主「宗春」。
幕府の緊迫した財政立て直しのために「質素倹約令」を
発した「吉宗」に対して、「宗春」は、それを無視。
歌舞音曲を許し、「名古屋は芸どころ」と言われる
文化を築いた。

しかし、そのことが吉宗の逆鱗に触れ、「宗春」は
隠居謹慎。その処分にもおとなしく従う。

幕末に、尾張がさっさと徳川宗家を見限ったのは、
紀州家出身の「吉宗」との確執かとも言われるが、
どうもそうではないらしい。成瀬、竹腰の二家老は、
家康から派遣された目付役でもあり、家臣共は、
あくまで「お家安泰」のために、徳川宗家に従順
だった。

そして幕末、尾張の支藩「高須松平家」の「慶勝」が
聡明の噂高く、藩主に迎えられる。そして、慶勝は
「長州征討」の総督を命ぜられる。

この時 慶勝は、戦う意思はさらさら無く、長州藩の
家老3人の首を差し出させて、さっさと引き揚げて
しまった。

このことは、長らく「不甲斐ない」所業とされて
きたが、「内戦などやっている場合ではない」と
いうのは、坂本龍馬とも同じ意見。今日、平成の世
には、受け入れられる決断だ。

時代が変わり、評価も変わる。尾張藩の立場を再評価
させた「渡辺博史」氏の卓見にも感心する。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ