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平成の虚無僧一路の日記

西郷頼母と姿三四郎の接点 

2021年07月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「姿三四郎」のモデルとなった「西郷四郎」と、養子親である「西郷頼母(たのも)」。両者の「親子」の関係は どのようだったのか?

左 西郷四郎  右 西郷頼母二人の来歴からは、どうもよく判らない。そもそも「西郷頼母」は、戊辰戦争後、先祖の「保科」姓に改姓している。「志田四郎」が「西郷四郎」と呼ばれるのは、自身は「保科」を継ぎ、「四郎」には「西郷家」を継がせるというものだったのか。「頼母」が「四郎」を養子に迎えた理由として考えられているのが・・・・、ジャジャジャ〜ン。会津藩筆頭家老の「西郷家」は、江戸時代、会津藩に伝わる「御式内(おしきうち)」という武芸を継承していた。「御式内」というのは、殿中の護身武芸で、藩主と家老、重臣、小姓など、奥勤めをする僅かな武士のみ修得を許された。藩主が、万が一、刺客に襲われた時、家臣の謀反などで襲われた時、刀を使わずに、相手を倒す護身術。「合気道」だ。「大東流合気柔術」の伝承によると、「西郷頼母は藩士時代に武田惣右衛門から御式内等の武芸と陰陽道を学び、1898年(明治31年)に霊山神社を訪ねた武田惣角(武田惣右衛門の孫)に御式内を伝授した」という。
「頼母」は、翌1899年(明治32年) 霊山神社の宮司を辞し、郷里の若松に戻っている。会津藩士の志田四郎もまた、この「御式内」を修めていたのではないか。彼が、講道館に入門したのも、1年で頭角を表したのも、「御式内」の基礎があったからであろう。彼が「西郷頼母」の養子になったのも、「御式内」の後継者と期待されてのことであろう。しかし、「西郷頼母」が養子「四郎」に「御式内」を伝授したという記録はなく、「四郎」は「講道館柔道」で頭角を現し、四天王の名を冠されるまでになった。そのことで、西郷頼母との関係は、気まずいものになっていったのであろうか。西郷四郎が、忽然と講道館を去ったのも、西郷家との関係が取り沙汰されるのである。

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