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今夜「風立ちぬ」が放映。笠原十九司元教授は「零戦は日中戦争の申し子だった」 

2021年08月27日 外部ブログ記事
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>今夜『風立ちぬ』放送!庵野秀明ら豪華声優キャストふり返り<と、ネットに案内がありました。
管理人は、>アニメ「風立ちぬ」は観たくない<及び>映画:賛否両論「風立ちぬ」>と、二回Blog記事にしてきました。
遊就館一階ロビーの「艦上戦闘機五十二型・零戦」

都留文科大学元教授笠原十九司氏は「日中戦争全史 下」の中で、「零戦はまさに日本海軍にとって『日中戦争の申し子』だったのである。」と論評されています。日中戦争の「重慶無差別爆撃」から「対米英蘭戦争」までを俯瞰した長文ですが、転載しますのでご参照ください。

「零戦」の登場大きく動いた日米開戦への歯車
 百一号作戦は当初、戦闘機隊をつけずに爆撃機の中攻部隊のみで強行した。他の地域の空爆作戦に 同行させた九六式艦上戦闘機(九六式艦戦)の戦闘機隊では、航続飛行巨離が長すぎて、奥地の重慶まで出撃できなかったからである。このため、中国空軍の戦闘機の迎撃をうけ、少なからぬ中攻機が撃墜された。日を迫って増える被害に苦慮した現地航空部隊最高指揮官の山口多聞少将や第二連合航空隊指令官大西瀧治郎少将らは、開発テスト中であった「敵地深く進入できるだけの長い航続力」をもった「十二式艦上戦闘機」の派遣を矢のように促した。同機第一陣の六機は四〇年七月一五日に漢口に送られ、開発テストと改修の仕上げをおこない、制式採用予定の七月にその年が皇紀二六〇〇年であったので、「零式艦上戦闘機・一一型」(略称「零戦」)と名づけられた。? 後陣の零戦も漢口に到着して一五機となった零戦は、八月一九日に初めて実戦に参加した。翌二〇日も重慶爆撃に出撃したが、中国空軍は新鋭戦機の出現に回避行動をとったので空中戦はおこなわれなかったが、単座戦闘機で往復一八五〇キロを飛行できる零戦の長距離航続能力が立証された。百一号作戦が終了したのは九月五日であったが、八月下旬以降、中国空軍機による邀撃(ようげき)がなかったので、海軍機・陸軍機とも被害はゼロとなった。? 零戦が中国空軍機と最初の空中戦を展開したのは、四〇年九月一三日であった。横須賀航空隊でテスト飛行をくり返してきた横山保大尉を零戦隊長とした一三機の零戦は、中攻機隊を掩護して出撃、重慶を爆撃したあと帰路についたが、密かに残した九八式陸上偵察機から、回避飛行をしていた中国空軍戦闘機が重慶上空に戻ってきたという無線を受けて、ただちに重慶に舞い戻り、零戦初の空中戦を展開した。中国空軍はソ連製のE15戦闘機約二〇機とE16戦闘機一〇機で、空中戦は約四〇分間にわたったが、中国軍機二七機を撃墜、零戦隊は全機無事帰還して、その優秀性を証明した。
 当日、漢口飛行場には、支那方面艦隊司令長官嶋田繁太郎中将が上海からわざわざ駆けつけ、出撃のパイロットを激励し、また帰還のパイロットを迎えたという。第二連合航空隊司令官大西瀧治郎少將は、指揮所に整列したパイロットの一人一人に戦闘報告をさせた。? 嶋田繁太郎中将は一年後の四一年一〇月には東条英機内閣の海軍大臣としてアジア太平洋戦争開戦へ大きな舵をとり、大西瀧治郎少将は、わずか四力月後の四一年一月末、第二連合航空隊司令官から連合艦隊附属の第ーー航空艦隊参謀長に赴任(二月一五日付)してすぐに、山本五十六連合艦隊司令長官から真珠湾攻作戦の具体的検討を委嘱された。? 零戦の威力を中国戦場の現地で確認した嶋田や大西らが、零戦を量産し、対米航空決戦に投入することによって、「緒戦の勝利」の可能性に賭ける気持ちに傾いたことは容易に想像できる。航空部隊による真珠湾攻撃作戦を考案した源田實は『真珠湾作戦回顧録』のなかでこう記している。? ? ??? ? ? 日本海軍の戦闘機隊は、パイロットの術力において勝っているのみに非ず、敵の戦闘機に対する空戦性能においても、わが方の機材がはるかに勝っていると思っていた。筆者のこの判断は、大陸の航空戰における空中戦闘で、その正当性が立証されたのである。特に真珠湾攻撃に当たっては、前年から大陸の空で、その無敵振りを遺憾なく発揮した零式艦上戦闘機の最新型を搭載していたのであるから、自信をもたない方がおかしいのである。? ? ??? 源田實中佐が、緒戦の日米航空決戦に勝利できる自信をもって、真珠湾攻撃作戦を作成し、大西瀧治郎少将をとおして山本五十六連合艦隊司令長官へ提出したのは、零戦の完成と中国の奥地攻撃における実戦演習による威力の証明があったからである。十二式艦上戦闘機は、南京渡洋爆撃と南京空爆の作戦経験を経て、長距離爆撃機の中攻隊を掩護できる機能をもった戦關機としての設計が強く要求され、その結果完成した零戦が、それまでの戦闘機では不可能であった奥地重慶への長距離爆撃中攻と長距離戦闘機に出撃し、向かうところ敵なしという期待どおりの戦果をあげたのである。零戦はまさに日本海軍にとつて「日中戦争の申し子」だったのである。長距離爆撃中攻と長距離戦闘機の二つがそろったことにより、航空主兵論であった山本五十六連合艦隊指令長官の真珠湾攻撃構想が現実化していった。零戦の登場によって、日中戦争からアジア太平洋戦争へと歴史の歯車が大きく動いたといえる。? 三菱重工の航空機設計者の堀越二郎の『零戦の遺産ー設計主務者が綴る名機の素顔』には、零戦の月別生産台数実績の表があるが、零戦は四〇年未には約ーニ〇機も生産されたとあることから、日米開戦の可能性に備えて、大車輪で増産がはかられたことがわかる。さらに海軍航空本部の指示でライバルである中島飛行機にも生産させることにしたのである。それによれば、アジア太平洋戦争に突入した四一年ーニ月までに、三菱重工では約五五〇機、中島飛行機では推定で約一五機が生産された。アジア太平洋戦争たけなわの四二年の三菱重工の生産機数合計が六九二機であるから、まだ開戦もしていない四一年の段階においでいかに急増産したかがわかる。? 次章であらためて言及するが、山本五十六連合艦隊指令長官が、対米英蘭戦争を決意して開戦準備を決定した大本営御前会議(四一年九月六日)のあとの九月二六日ごろ、澤本頼雄海軍次官にたいして、「長官としての意見と、一大将としての意見は違う。長官としては、ーー月末までには一般戦備は完成する。戦争初期は何とか戦えるが、南方作戦は四ヵ月よりも延びよう。艦隊としては、零戦・中攻各一〇〇〇機ほしいが、現在は三〇〇機しかない。しかしこれでもやれぬことはない」と述べたという。零戦の登場によって、山本五十六連合艦隊指令長官も、アジア太平洋戦争突入へと大きく傾いたことがうかがえる。
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(了)
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