メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

都わすれの「「ベガルタ応援日記」

自分を一言で表すと 

2021年11月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


私を一言で表すって・・なんでしょうかねぇ・・  しいて言えば「辛さにも負けない強さ」とでも言いましょうか(私の恥を晒すことに)・・ 子供の頃から辛いことは山ほどあったが、ここに書けないようなことも何度もあった  しかし子供の頃は「嫌だなぁ・・」って思うが、意味が分からなくってホント比較的最近になって、「あれは・・」って思ったこと・・ 知床では火事で焼け出されて丸裸でしたが、5年生でした  その後は仙台に帰り暫らく父の実家に居候、今と違って貸家など無かったから農家の納屋を借りて、10畳一間位のところに親子4人での生活だったが父はうつ病で仕事をしてなかったし、生活保護を受給していた時もあった(私が中卒後働くまでか) だから中学を卒業する時は仙台市父母教師会会長さんと、学校長先生から表彰状を頂きました    今気が付いたのですがこれって凄いことだったのかと、職員室で私の話題が話されていたのでしょうね  多分中1の時の担任の先生から家庭訪問に来た時のことを、もう50歳過ぎてから先生のお宅に伺った時に「あの頃は大変だったね・・」って言われたから、この先生の推薦とかあったのかなぁ・・ 高校の通信教育も先生に中卒が4年目の時、今からでも遅くないよって勧められて始め最短の4年で卒業できました  今は先生と連絡取れずコロナで伺えなくて心配していました(電話は聞こえないから) 調子が良い時父が額縁を作ってくれて、上の賞状は自宅に飾ってありましたから色が悪くなっていました(今は賞状ファイルに入れてあるが、万一の時はお棺に入れて貰おうと) バツイチで再婚の夫は若くして交通事故死だったし、あの震災を含めて二度自宅を失くしました  宮城県沖地震の後私の細腕で建てた家は、東日本大震災で床下浸水・大規模半壊でした  しかし離婚で私は強くなり、突然の夫の死にも何とか頑張れたものと思っている  父親は働いていた時もあったが、宮城県沖地震がショックで鬱に戻り最後は自死でしたから、私は重荷を背負って生きています  母は救急搬送されてICUで丁度2週間でした  何があっても明るく笑顔を心がけていますよ  ブログ村に登録しておりますので、「ポチッ」と応援いただくと励みになります。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ