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葵から菊へ
佐渡金山→端島炭鉱(軍艦島)→松下村塾の世界遺産はなぜ?
2022年02月05日
テーマ:テーマ無し
岸田政権は世界遺産に申請するため「佐渡金山」を閣議決定しました。
世界遺産「明治産業遺産」が認定されるときに「朝鮮人強制労働」についての展示を条件とされたにも係わらづに、内閣府のミュージアムである新宿区若松町に設立された「産業情報センター」の展示の端島炭鉱(軍艦島)には、強制連行はなかったという元住民の証言ばかりでしたので昨年は追加決議がなされました。
そもそも「明治産業遺産」に「松下村塾」が入っていたのか不思議だと思っていました。文化庁ホームページ「世界遺産」によれば「松下村塾」の「詳細説明」は『日本の近代化の思想的な原点となった遺産の一つ。特に,海防の必要性と,西洋に学び,産業,技術の獲得を重視する考え方が,長州ファイブや塾生に引き継がれ,後に,明治政府の政策に活かされ,日本の急速な産業化に貢献した。』となっています。
世田谷区若林の松陰神社境内に松下村塾の建物(模造)があります。
参考blog記事「幕末維新 ー近代世田谷の夜明けー(近代建築ツアー歴史散策編)」
原田伊織著「明治維新という過ち〜日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〜」が、小気味よく吉田松陰の思想を批判していますので抜粋して転載します。
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吉田松陰というウソ
(略)この密航未遂事件では、佐久間象山が連座したとして投獄されている。幕府では、佐久間象 山と松陰を処刊すべきであるとの意見もあったようだが、老中主座阿部正弘がこれに反対したとされる。赦免されて出獄、長州へ戻った松陰は、安政二(1855)年、またも実家預かりの身となった。そのような境遇下で、叔父であり師でもある玉木文之進の「松下村塾」を借りるような形で久坂玄瑞や吉田稔麿、前原一誠たちと交わる。これは、僅か三年で閉じられるが、世に いう吉田松陰=松下村塾という維新のシンボルともいえる言葉は、この時期のことを指している。公教育では、久坂や前原以外に、木戸孝允や高杉晋作、品川弥二郎、伊藤博文、山縣有朋等 が門下生として教えを受け、維新の英傑を輩出したことになっているが、このことも大いに史実と異なる。木戸は明らかに門下生でも塾生でもなく、高杉も門下生というよりダチといった方 が近い。そもそも、松陰の松下村塾とは、師が何かを講義して教育するという場ではなく、よ くいって仲間が集まって談論風発、『尊皇攘夷』論で大いに盛り上がるという場であったようた。そういう仲間のリ?ダ?格が松陰であり、いろいろな縁で山縣有朋のようなどこにも教えを受ける場のない境遇の者も集まるようになり、後輩も生まれてきたということのようである(尤 も松陰は、山縣のことをほとんど知らない。) 安政五(1858)年、日米修好通商条約が締結されると、松陰は老中間部詮勝の暗殺を計画、藩は再び松陰を捕縛、投獄した。 翌安政六(1859) 年、幕府は松陰の江戸への送致を命令、松陰は伝馬町の獄舎にて斬首刑。満二十九歳、享年三十であった。 松陰は、大老井伊直弼の暗殺も主張していた。また、幕府転覆を堂々と主張し、藩に対して大砲を始めとする武器の支給を願い出たりしている。とにかく、斬殺、暗殺と喚く。これがまた、久坂や前原といった松陰同様の"跳ね上がり"には受けたようだ。 長州藩が、杉家の杉梅太郎((陰の兄)に警告を出している。 「妄動してやまざれば投獄あるのみ」 藩や門下生といわれる者たちの一族にしてみれば、松陰の言動は文字通り「妄動」であり、このことは時の政治情勢から客観視しても変わらない。久坂の一族などは、何とか久坂を松陰から引き離そうと苦労したことが分かっている(久坂の妻は、松陰の末妹である)。 『安政の大獄』の名で大老井伊が特に松陰に目をつけ、彼を処刑したことになっているが、当時の松陰は世間に溢れ出した尊攘派の中の特に荒っぽい一人に過ぎす、井伊は松陰という男のことなどよく知らない。調べれば、密航を企てた前科のあることは分かったであろうが、井伊が果たしてそこまでやったかどうか。いざ処刑という段になって、井伊は松陰の処刑について長州藩に意向を聞いているのだ。長州藩の回答が、松陰の行動を「暴発」とし、「斬首やむな し」というものであった。当時の幕閣にしても、諸大名にしても、松陰処刑を殊更の事件とも 何ともみていない。不逞の輩が一人処刑されただけであった。 こういう松陰を「師」であると崇めだしたのは、御一新が成立してしばらく経ってからのこ とである。「師」として拾い上げたのは、長州閥の元凶にして日本軍閥の祖、山縣有朋である。中間(ちゅうげん)という足軽以下の出自をもつ山縣は、自然と累進するに従い、拠り所が欲しくなったの だろう。また、それが必要と感じたに違いない。権力欲の強い男は、己を引き上げるためにこういうことをよくやる。自分に自信のない権力者ほど、その傾向が強い。現代でいえば、学歴、学閥に異常に執着する政治家や官僚、大企業幹部や一部の学者と同様である。これによって、 吉田松陰=松下村塾は一気に陽の当たる場所へ躍り出た。あとは、長州閥の勢力膨張に歩調を合わせて、即ち日本の軍国主義化に乗って、雪だるまが坂道を転がるようなもので、気がつけば松陰は「神様」になっていたのである。 松陰処刑直後は、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠等が松陰の「遺志」を継いだ跳ね上がりであった。百歩譲って、松陰が何らかの思想をもっていたとしても、それは将来に向けて何の展望もない、虚妄と呼ぶに近いもので、ひたすら討幕の機会を窺っていた長州藩そのものにとっても松陰は単なる厄介者に過ぎなかった。 例えば、松陰の外交思想というものは余り語られないが、実に稚拙なものであった。北海道を開拓し、カムチャツカからオホ?ツクー帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、 満州、台湾、フィリピンを領有するべきだというのである。これを実行するのが、彼のいう「大和魂」なのである。一体、松陰はどういう国学を、どういう兵学を勉強したのか。恐ろしいことは、長州.薩摩の世になったその後の日本が、長州閥の支配する帝国陸軍を中核勢力として、 松陰の主張した通り朝鮮半島から満州を侵略し、カムチャツカから南方に至る広大なエリアに 軍事進出して国家を滅ぼしたという、紛れもない事実を私たち日本人が体験したことである。(傍線は管理人) この大東亜戦争時、いわゆる戦時中、我が国の新聞には吉田松陰が頻繁に登場するが、ここ までに述べてきた松陰の実像、正体というものからすれば必然の現象ともいえる。例えば、昭和和十八(1943)年一月十三日付朝日新聞には、日本武学研究所長佐藤堅司の論文ともいう べき長文の連載コラムが掲載されている。佐藤堅司は、孫子の研究家として知られ、陸軍士官 学校の教官を務めた人物である。 私たちは、明治から昭和にかけての軍国日本の侵略史というものを、御一新の時点から一貫 してなぞって振り返ってみるという作業を全く怠っているのである。それをきっちりやれば、吉田松陰が神格化されることも、坂本龍馬の虚像がはびこることも、致命的な欠陥を含む司馬史観なるものが歴史観を支配することもなかったはずである。(略)
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(了)
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