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徳田球一が市ヶ谷刑務所に収監されていた時、関東大震災があった「徳田球一傳」から 

2022年06月11日 外部ブログ記事
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ウルトラマン通りの古書店で、1955年評論社刊「徳田球一傳」を購入しました。
徳田球一が市ヶ谷刑務所に収監されていた時、関東大震災があったことが「獄中十八年」にありますので転載します。(原文のママ)
佐藤忠良の挿絵

まず市ヶ谷刑務所に収監された経緯からです。
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? 少年シンパ
 わたしはそのころ、ある友人の家の二.階に.いた。そこへどうしてさがしたか、私服警官がやつてきたが、丁度その家の近所にわたしに非常になついていた十二三くらいの子どもがいて、そつとわたしに「おじさんをつかまえに警察の人がきたよ」としらせてくれたので、すぐカバンに荷物を入れて用意していたところ、その友人のお母さんが「徳田球一という人はいない、家のむすこと友だちだから、もしかするとむすこの女の家にでもいっているかも知れない」とがんばってくれた。もう五十以上にもなる女の人のいうことだから、スパイも信用したのか そのままでていってしまった。そこでわたしはうらからそっとにげだし、やっと虎口を脱した。そのころわたしは組織運動のために、京都と名古屋へゆかねばならない約束があったが、金がなくてどうしてもでかけられなかった。ちょうどこの金をつくるために、石川島造船所の高山という人のところへたずねていって話をしていたとき、高山の子どもの共産党ファンで一 人は七つくらい、もう一人は十くらいの二人の子どもが、突然「おとっつあん、きたぜ」といったので、また警官がおっかけてきたことがわかり、すぐに屋根ずたいににげた。ちょうど三軒ばかりさきに知っている労動者の家があったから、一時間ばかりその家の?入れにかくれていて、もういいというので、高山がさきにたち、そのあ'とへついてゆくと、一丁ばかりさきにまだ警官が張っていることがわかった。そこであわてて、ひきかえし、知りあいのところへ いって、タクシーを、呼んでもらい、それにのって警官の前,をスッととおりぬけてにげてしまった。その夜は友だちの家へとまって、翌日新橋から名古屋へとび、大阪まで足をのばし、用事をすましてふたたびかえって'きた。高山はわたしをみると、ぜひ福島の友人のところへにげるようにすすめたのだが、どうせ一年くら.い監獄生活をするたけのことだからにげてあるくより入った方がいいというので、弁護士山崎今朝弥氏と相談して 検事局へ出頭することにした。そのときわたしのつかまった理由、ある労仂者の会合で、わたしが革命のおこったときの暴動組織について話したことが、暴動を扇動したというのであった。そこで「そんなことは罪ではない」「いや煽動罪だ」というので検事とのあいだに猛烈な議論をかわしたが、ついに市ヵ谷の監歐へ入ることになった。晩めしもくわないでうすくらい監獄のへやへはいると、まもなく「めしをくえ」といって、ほとんど麦めしのところへ申しわけばかり野菜のついている、とてもこの世のくいものとはおもわれないような弁当をもってきた。わたしはこれをすっかりたべて、もう一ぱいくれといったら、看守は目だまをまわしておどろ'ていた。その翌日わたしはさ っそく予審判事に呼ばれて出頭することになった。そのころは一般に獄外へ出るときは深編笠編をかぶせて顔をみせない式たったが、わたしは笠をかぶらせようとする看守に むかって、「おれは破擁恥罪ではないから顔をみせてもいっこうにかまわない。」とどなってどんどんあるきだしたので、看守は、「乱暴なやつだ」とつぶやいたまますこしも干渉しなかった。監獄では、さいしょの押しが大切だとおもっていたがまったくそのとおりで、入った瞬間にすっかり落胆し、「パタンと房のとびらをしめられたときは死のどん底におかれたよぅな気がした」と述懐した三・一五事件の水野成夫のように、さいしょからめしもくえないよぅではかならず没落する。水野は監獄をでたいために、革命的確信をすっかりうしない、とぅとぅ解党派になり、スパイにまでなりさがってしまった。?

市ヶ谷刑務所に収監されいた時に関東大震災に合いますが、朝鮮人虐殺に加わった在郷軍人が収監されてきた様子も書かれています。
 市ガ谷でむかえた大震災
 市ガ谷で九月一日の大震災にあった。監獄は昼飯の時間がはやいので、あの日も、がらがらと大揺れがきたのは、ちょうどわれわれが昼めしをすませたときだった。監房はふとい柱があってささえているいるから、 あれほどの大揺れにもよくたえて、ほとんど心配するほどのこもなかったが、事務所の方は、ひろいうえに支往がすくない.ので、非常に揺れかたがはげしく、屋根の瓦がぜんぶおちてしまい、たちまち大さわぎとなった。わたしの独房は事務室と隣りあいなので、そのさわぎが手にとるようにきこえる。ところが看守は命令がないといって、独房の戸を.あけよぅとしない。わたしはふんがいして、こ危急のさいに命令を待つ必要がぉるかとどなった。そのうちに看守がやってきて、独房の鍵をはずしてくれた。わたしはとぴだすなり、すぐに事務所へいってみたが、でているのはわれわれ共産党の連中だけで、ほかの囚人は、この大地震のさなかに依然として監房にとじこめられたままになっていた。「みんなもだせ、あぶないからみんなもだしてやれ」と、またどなりつけた結果、ようやくみんなそとへだすことになり、看守が鍵をはずした。夏ぶとんとござを各自一枚ずつ持ち、みんな血相かえてとびだしてきた。? ところが戸外は、正午ちょっとまわったばかりで、ひざかりの太陽がかんかん照りつけている。みんなながいあいだ監房にとじこめられていたのが、急にそのひざかりのそとへでたものだから、こんどは日射病にやられてたおれるものがでてきた。わたしはそうでもなかったが、同志の渡辺政之輔と田代常二とは、日射病のために全身がけいれんをおこし、みるまに顔いろがなくなった。役人にかけあって、日射病にやられた連中は監獄のなかにうつし、われわれは総ぜい八百人で中庭にかたまった。監獄がわでは、われわれ監房からだすと同時に、いちはやく軍隊に通報したとみえて、まだ日のくれないうちに軍隊が出動してきて、監獄の塀のそとをとりかこみ、夕方には中庭にはいって、着剣ものものしくわれわれを包囲した。? その日の三時頃、わたしは中庭の八百人のなかまたちにむかって一つの演説をした。 「いま、そとの情勢は.非常に混乱している。われわれ身うちのものも、大部分は地震なり火事なりでやられているにちがいない。そこで、こういう特別のばあいだかだから、われわれは監獄にたいして、われわれぜんぶをただちに釈放するように要求しょうじゃないか。みんなのうちから代表をえらんで、すぐに役人に交渉しようじゃなか」 こう提言したところが、みんな賛成して、各監舎から一名のわりでそくざに代表委員会ができあがった。これが監獄自治会のはじまりである。その後囚人たちの自治組織として、あの混乱のあいだじゅう、役人との交渉から食事にいたるまで、生活のすべてをりっぱに囚人自身の手で処理していった。いわば監獄のなかに民主主義を実現したわけだが、どろぼうや人ごろしのあつまりでありながら、この自治組織がりっぱに運営されたという事実は、いろいろな意味でげんざいも人をしてかんがえさせるものを持っているとおもう。 とにかく代表委員会ができたので、わたしも委員の一人としてただちに役入のところへ「釈放要求」にいった。しかし、軍隊の応援をえて、すっかり気が強くなった役人たちは、頑としてわれわれの、要求をいれようとしない。そこで、代表委員会は一たんでなおして、こんどは、「どうして釈放をゆるさないというならしかたがないが、それでは、われわれの代表者を数人監獄か'らだして、そとのようすをぐわしくみてきて一同に報告することをみとめろ」と、あたらしい要求をだした。監獄はこれすらもみとめなかったが、われわれはがんばって、けっきょく監獄の役人がわれわれに報告することをみとめさした。ところが、このようなわれわれの活動におそれをなした監獄は、囚人のあいだに不穏の気がみえるというので、軍隊の威勢をかりて逆にわれわれに攻勢をいどみ、われわれはまたぞろ手錠をはめられる結果となった。手錠といっても八百人に一つずつはめてまわるほどには準備がないので、わたしなどは一人で一つの手錠をはめられたが、のちには一つの手錠で二人をつなぎあわせるという乱暴さだった。一人は右手、もう一人は左手に手錠をはめられ、二人三脚のように幾組かの人たちがつながった。もっとも乱暴なのは、病監にいた同志渡辺政之輔、川崎悦行が手錠をはめられようとしていることだった。わたしはそれをみて、戒護主任に、もし病人に手錠をはめるなら断乎殺人意思あるものとして訴えるからと抗争した。それで、敵もやっとおいとどまってかれら病監にかえした。 地震の日から二日目に雨がふった。この雨のおかげで、われわれはまた監房のなかに入れられてしまった。その翌日だったか、軍隊は扇形に列をなしてひろがっている監房群の中の広場に集結した。そしてわれわれを一人一人ひっぱりだして、監房の入れかえをはじめた。すこしでも反抗がましいことをするものにたいしで,'、なぐる、ける、そのほか、ありとあらゆる暴行がくれえられた。例によっ て「天皇の名において、その命令によって」である。震災によって一時ゆるめられていた監房内の厳格な圧制をふたたびもとへもどそうとして、それに馴らすための予備行動なのである。杉浦啓一などは一週間もうなっていなければならぬほど打ちのめされた。? それからまもなく、血みどろになった一群の人たちが、いれかわりたちかわりトラックではこばれてきた。それはすべて「暴動の嫌疑」で逮捕された人々で、そのうちには無産主義者、無政府主義者をはじめ、朝鮮の人々や、労働 組合、農民運動の闘士諸君などがいた。? 一月ばかりたって、監獄はふたたびもとの状態にかえった。するとあたらしい型の青年たちが数十人入ってきた。いわゆる囚人らしくないしろうと型であった。当時は震災で独房の運動場がこわれていたので、監房の廊下が運動場になっていた。わたしは、かれらがわたしの監房,のまえをとおるごとに、かれらと話をかわした。かれらは在郷軍人の兵士たちだった。入ってきた理由をきくと、震災のとき朝鮮人、中国人、共産主義者、無政府主義者などが方々でころされたが、その虐殺犯人のうたがいをか,けられたのだという。かれらは在郷軍人だというので、将校どもから召集されてその虐殺集団にくわえられたが、しかしか れらは将校の命令で街じゅうをおいまわされただけで、人を殺したことは全然ないという。ただ、鉄砲を持っていたというだけで、虐殺者の名をおわざれてひっぱられたにすぎない。つまり罪はすっかり兵士たちにおしつけほんとうの犯人である将校や在郷軍人会の分会長などは、口をぬぐってきれいな顔をしているのだ。わたしはその連中に、「どんなことがあっても検事'なんかに、ごまかされてはだめだよ」とはげまし、同時に自由法曹団にも連絡して、軍閥や警察のそういう憎むべき欺計にたいして徹底的にたたかってもらった。もともと無実のことだから、大ていの人が無罪釈放になったが、いやしくも殺人という重大ないいがかりを、そんなにもむぞうさにつきつけられたあの人たちの悲憤は、まったく尋常一ようなものではなかったろうとおもう。
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>注< 文中に出てくる渡辺正之輔の母親が、市ヶ谷刑務所正門前の市谷富久町118番地にあった赤色救援会(現国民救援会)で、差し入れなど救援活動を行っていました。
(了)
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