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葵から菊へ
「世田谷近・現代史 関東大震災と世田谷地域」当時の世田谷が未だ農村社会の生活を営んでいたことが大きな理由であったと思われる
2022年09月03日
テーマ:テーマ無し
世田谷図書館で「世田谷近・現代史」を読んできました。烏山だけではなく、三軒茶屋でも朝鮮人虐殺があったと、世田谷町町長相原栄吉の記録にあります。
第六章 関東大震災と世田谷の開発第一節関東大震災と世田谷地域
? 大正12年9月1日 この日の午前11時58分すぎ、相模湾北西部の海溝最深部15?を震源地点として発生した地震は、その瞬間、関東地方南部一帯に稀有の大震動を伝えたが、とりわけ、東京、横浜の大都市を中心とする地域にいた人びとを驚愕と恐怖のどん底に突き落した。建造物の倒潰、道路に生じた亀裂や陥没、家材の下敷になって動けない人達、そしてやがて発生した火事は消火機能を奪われた町々を焼き尽していった。被災地全域において70万戸近くの世帯が、家屋の焼失・倒潰・.損傷を蒙むり、死者、行方不明者、重軽傷者は合わせて340万5千人にものぼったことが、後に明らかになった。こうした前代未聞の被害の大きさによって、この地震は「関東大震災」と名付けられたのである。? このような被害の大きさだけからも推測されることではあるが、その直後から東京、横浜周辺一帯は一種のパ二ック状態となり、その影響は社会生活の諸側面に広く、そして一般庶民の予想を超えて深く及んでいった。 世田谷地域においては、この大地震による直接の波害は、右のような数字に照してみたばあい、決して大きな ものといい難い。しかし、"その時"に人びとの遭遇した驚きと不安は、大きな被害の発生した地域の人びとと 何ら変わるものではなく、なかんずく、それの世田谷地域の歴史に対してもつ意味の大きさは、後に述べるように決して看過しえないものといえよう。? (略)?
世田谷地域がこのばあいこうした被害ですんだことは、それのもつ地形上の利点が原因として考えられるだろうが、それにもまして当時の世田谷が未だ農村社会の生活を営んでいたことが大きな理由であったと思われる。しかも、この時期は農繁期であり、朝遅くまで降っていた雨上りの後、人びとは麦の作付や蔬菜の施肥といった農作業に忙しかった。人家の密集した市中では、昼食準備に用いた火の不始末が大火災を発生させ、そのために先にみたような大災害が引き起されたのであったが、この地域における火の使用度の少なさやまた使用時間のズレが火災を一件も発生させず、その被害を最小限にとどめた大きな理由であったろう。(略) 被害の多さが注目されるが、その大半は半潰程度ですん だから、災害の全体からみればやはり「大したことは ない」といえた。事実、その千歳村粕谷に当時居住していた徳富蘆花は、「千歳村は幸に大した損害はありませんでした。甲州街道筋には?れ半潰れの家も出来、松沢病院では死人もありましたが、粕谷は八幡様の鳥居が落ちたり、墓石が転んだ位の事で、私の宅なぞが 損害のひどかった方でした。」と報告している(『みみず のたはこと』あとがき)こうした災害後の混乱とそれへの対応の様子の-端 は、蘆花の『みゞずのたはこと』にも記されているが、 やはり相原町長の記録にくわしい。(注)以下の文章を除外している。>鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞はずかしい事です。<(略)
相原栄吉〔当時世田ヶ谷町長〕(カタカナ文と漢数字を直してあります)? 〔翌2日〕自宅は早朝より災害調べ、炊出し等に忙し。午後1時頃より避難者続々来る。聞けば鮮人襲来するなりと、予報に依り老幼婦女は一定の箇所に避難すべしと云う。いずれに行くかと問うに、行くとして目的なしと。次の報告に依るに、横浜を焼き鶴見に来り、爆弾を以て町に放火せりと。或はこれと対抗すと、故に戦場に異ならずと報ず。次に不逞鮮人、大挙して多摩川を渡らんとす。六郷は橋を断ちこれを防ぐと。次は鮮人、丸子にて目的を果さず、溝の口に来る。衝突し、死者20人程ありと。いずれの死者なるや不明。? 午後3時頃、警鐘乱打、警報あり。鮮人団、多摩川を渡り、用賀方面に向う由。又一説には、奥澤方面に現れたりと。午后4時半頃、砲兵隊にて空砲を発射す。これは、鮮人を威迫するなりと。これにて大に信ぜざるを得ざるに至る。依て警戒す。砲兵、輜重兵、憲兵等、交々偵察すれども、要領を得ず。? 日の暮る頃までに避難者陸続として来る。目的地なき人は、拙宅裏竹薮中に避難させ、四方を消防隊、青年団にて護衛す。握飯を庭前に用意し、各自勝手に食す。? 夜に入り、船橋土手下に鮮人2名現れたりと。喜多見橋付近にも出没せりと。六郎次山に怪し者隠れたりと。代田橋にも怪人来れりと。和泉新田火薬庫、大警戒せりと。その内に若林にては、2名鮮人山に入りたりと大さわぎ。一同気を取れおりしに、宇佐神社太鼓を打ち大さわぎ。何事ならんと慄々たり。聞けば、2名怪人豪徳寺山に逃入せんと。最も事実らしく、けだし詳細は不明。如何に鮮人地理にくわしくも、人目に触れざるは不思議なり。? かくの如く警戒中、夜半に至る。青年団捜索の結果、2名の僧を連れて来る。この者は、最近豪徳寺の徒弟となりしもの、一人は8月25日、一人は9月1日午前11時、寺へ来りしもの、裏の山に避難し、落伍して畑に出て陸稲の中に隱れ、時々頭を出し外を見たるとき、青年団員に見られ引卒されたるなり。依て避難所警戒を命ず。町内各警戒所の連絡、異状報告、軍隊の連絡、憲兵等交々来る。互に相戒め、その夜は不眠にて警戒す。 翌3日より戒厳令を布かれ、秩序を保持することとなる。しかれども流言区々にして、何等信ずる能わず。加うるに、玉川砂利場鮮人工夫は皆一ヵ所にトラクターにて運搬、或は護送す。三軒茶屋にて殺傷事件あり(勝光院に葬る)。? (世田谷区編「世田谷近・現代史」世田谷区、1976年)
(作図は管理人)
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(了)?
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