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陸軍大将児玉源太郎自宅跡については「市谷薬王寺町誌」によって説明 

2023年02月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



昨日、人骨の会(軍医学校跡地から発見された人骨問題を究明する会:代表川村一之)が主催する「3月26日 お花見ウオーク市谷・戸山コース」では、歩かない歴史・軍事ポイントを「人骨の会フィールドワークチーム」のメンバーを管理人がガイドしましたが、児玉源太郎大将自宅跡については「市谷薬王寺町誌」によって説明しました。
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 児玉源太郎は、明治十八年ごろ、佐倉連隊から近衛局長に栄転して上京、薬王寺町の陸軍省官邸(位置不明)に入られてから町の住人となった。明治二十一年七月二日に、一五二坪九合七勺の土地を購入して邸宅を建てたのであった(以後宅地拡張)。 日露戦争時には、召集された予備兵は寺院に集められたようで、前中島象一郎会長によれば、「薬王寺町・柳町・原町・弁天町の寺々には召集された予備兵がぞくぞく集まり、毎日面会人・慰問団で混雑し、薬王寺住民も各自慰問した。六月ごろ、小雨降る朝、大歓声のもと、寺に泊っている部隊が出発した。進軍ラッパを吹奏し、各部隊が合併して大部隊を編成し、旅順に向かった。薬王寺住民・親戚・知己の万歳・歓呼の声は、天地にとどろいた。日露戦争は大勝利に終り、児玉大将が凱旋した時には、地主の主が住民を代表して万歳を唱えた」という。 薬王寺町七十四番地船橋家の所には、当時、牛込警察署の分署があり、イヌイの前には交番があった。明治三十八年九月、日露講和に不平をもつ人々は、いわゆる交番焼打ち事件として発展した。薬王寺交番も十一月の夜九時ごろ焼かれた。児玉家は、表門・裏門ともに巡査十人位椅子に腰掛けて警戒に当たった。


 高橋病院は、呼吸器専門であった。この医院前から西の通路を甲良町にかけて桜並木があり、花時には見物す る人が多かった。 この病院は、小説「不如帰」のモデルになったと評され有名になった。小説は、明治の文豪徳富芦花の作で、国民新聞に連載され、映画にもなった。 大山元帥の娘浪子と子爵川島武雄海軍中尉との家庭悲劇を描いたもので、小説の原型であると評された。その浪子が、青山から親戚である薬王寺町の高橋病院に、人力車にゆられて通ったのである。

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(了)

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