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「開国と攘夷」下田の街レポートE76年前の想い出 

2023年05月03日 外部ブログ記事
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下田の街に訪問したのは、「開国と攘夷」の調査研究だけではなく、もう一つの目的があった。それは「76年前の想い出」探しである。
昭和22年(1947)10歳の時に、下田橋、武ヶ浜、弁天島、下田埠頭で撮影した写真がある。
父親は、夏休みに杉並区立桃井第四小学校クラス担任の山下朝春先生や友人らを誘って下田に来た。当時は下田市柿崎町出身の女中さんがいたので、その実家に宿泊した。
稲生沢川(いのうざわ)の「新下田橋」は、「下田橋」を改修したと思って撮影をしたが、国道135号線の橋として昭和34〜5年頃に構築したそうである。「下田橋」は、現在の「みなと橋」だった。



「みなと橋」から「新下田橋」を望む。

アルバムから剥がした写真


「下田絵葉書」の管理人から許諾済




「(伊豆・下田)下田港頭の景趣、交通頻繁なる下田橋」(下田名所全集・大正写真工藝所)






昭和初期。武ヶ濱側から見た下田橋(S3.2/18開通)。現在の「港橋」。バスに伊東行の表示が見える。





父親は、杉並区天沼一丁目にあった原不動産に勤めていたが、何故女中を雇うほど裕福な生活が出来たのだろうか。その後は没落し、くも下出血で亡くなった。


絵葉書

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「(下田名勝)武ヶ濱海水浴場」此附近ニ幕末韮山代江川莫龍練兵所ヲ置ク 






大正末期頃。第二代下田奉行今村伝四郎正長公が建設した浪除に砂が寄ってできた武ヶ濱。現在、埋め立てられ砂浜はなくなってしまった。第2次大戦直後、食料難のときは塩炊きも行われた。「下田橋をわたつて柿崎辮天へ向つていくとい松原が白い濱を抱いて港へ突き出してゐる。武ヶ濱である。遠淺で海水浴には好適地だから其の頃には輝かしい陽の下に大河童小河童が黒い背を干してゐる。濱の後は防波堤である。松原に夕日が沈む時一の石碑が下田の方へ向つて映え輝くを見るだらう。それは下田奉行今村傳四郎正長の勒功碑である。今村傳四郎は私俸を抛つて防波堤を築いた。大正の津波には下田町民は今更に正長の偉大なる功績を感謝したのであつた。」(奥伊豆めぐり第6版・森義男 T15年)





絵葉書




「伊豆下田柿崎辮天 吉田松陰先生此處ヨリ海外渡航ヲ企ツ」 (下田名勝繪はかき・マルヨ発行)







大正時代頃。辮天島こと鷺島に鷺島神社という祠堂がある。嘉永7年3月27日、吉田松陰と金子重輔は、この海岸から伝馬船を漕ぎ出し米艦に渡り密航を企てた。




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昭和22年8月2日に日の出桟橋から東海汽船黒潮丸に乗船し、下田港で下船した。3日には帰京した。




(続く)

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