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人生いろは坂

活弁三昧 

2011年11月13日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 活弁なるものを始めて四年になる。そもそも死語にも近いような活弁というものについて説明して
おかなければならないだろう。

 昭和10年くらいまでに製作された映画は、少なくとも洋画、邦画を問わず無声映画であった。
その後に開発された映画フィルムに音声を刻む方法がなかったからである。音声を刻むと言っても
本当に刻むのではなくフィルムに音波を波形にして印刷し、それを読みとる方式である。

 こうして現在にも伝わるトーキーという映画方式が確立したのである。ちなみにレコードは文字通り
音声をギザギザの波としてレコード盤に刻んである。これをレコード針が振動として拾い電気信号に
変えて増幅している。

 昔の蓄音機は電気的な信号として拾う方法も増幅手段もなかったので、そのまま音波として取りだし
ラッパのようなもので増幅していた。いわゆる蓄音機と言うものである。

 そもそも写真でさえ珍しかった時代に、その写真が動くのだから一般の人は驚いたに違いない。
これを写真が動くと書いて活動大写真と呼んだ。活動写真に弁士なる人が声色や映画説明を加え
面白可笑しく見せたのが活弁の始まりのようだ。

 活弁映画の始まりであり活動弁士なるものの登場であった。欧米では字幕と演奏家による音楽を
付けて見せていたらしいが、日本では昔から浄瑠璃や語りの文化なるものがあり活弁士なるものが
生まれる土壌があったのではないかと言われている。

 全盛期には、活弁士は映画スター並の地位を築いていた。もてはやされるような時代があったので
ある。かくして、にわか活弁士や活弁士を真似る人もたくさんいたようである。ひいきの活弁士に
惚れて夫婦になったという女性も少なからず居たようである。

 しかし、トーキーが発明され活弁士はお払い箱になった。私達もにわか活弁士から本格的な活弁士
となり多くのところから招待を受けるようになった。当初、かくも多くのところから招待を受ける
ようになろうとは思いもよらぬことであった。今月だけで三カ所で活弁口演を行った。

 この内の一回は地元児島で毎年開催している児島活弁シネマライブであった。佐々木亜希子弁士の
前座を勤めさせて貰った。そして三日ほど間をおいて11月11日岡山市民会館の「年金受給者の
つどい」と称する式典で、アトラクションの一つとして行った。引き続き11月12日は矢掛の中川公民館
から招待を受けての活弁口演であった。

 特に音響設備の整った、しかも生演奏の児島文化センターでの口演や岡山市民会館での口演は
非常に多くの方々からお褒めの言葉を頂いた。

 そして今月の末、11月27日には岡山デジタルミュージアムで「大正の時代」展と称する行事の
一環として活弁を行う予定になっている。デジタルミュージアムは私達夫婦(みょうと)活弁士誕生
の場所である。実に丸4年ぶりの活弁口演で誠に意義深いものを感じている。

 振り返ってみれば活弁というものに対するあこがれだけで始めた「児島活弁シネマライブ」だった。
親友のK君を強引に説き伏せての開始であった。彼がいささかなりとも映画に関係していたことが、
せめてもの救いであった。そして後押しをして下さったのが、わが児島文化協会の会長M氏であった。
学生だった頃、東京で杉村春子さん等とも知り合いだったと言うこともあって映画に関しても知見が
深い人である。

 今、児島活弁シネマライブは岐路に立たされている。年を追う毎に入場者が減少しつつあるからだ。
これからも続けるべきか、それとも止めるべきか。続けるとすれば如何にすべきか、課題は多い。
何しろ相当数の入場者がいないと東京から弁士を呼んでくる費用が捻出出来ないからだ。

 反面、毎年欠かさず見に来てくれる固定客とも言うべき愛好者も少なくない。これらの人のことを
考えると、止めてしまったらどんなにがっかりするだろう。そう考えるとつらい。友人の一人はぜひ
続けようと言っている。これからの課題である。

 さて、活弁を多くの人に知って欲しい、楽しんで欲しい。決して古いものではなく今にも通じる
文化だと思い始めた夫婦活弁士だが、今や多くのところから声がかかるようになった。それというのも
テレビやラジオ、新聞や小冊子にまで取り上げて貰えるようになったからでもある。また、来年に
向けての新しい取り組みも始まろうとしている。さて、どのようなことへと進展していくのであろう。

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