筆さんぽ

心美しい少女とは●オジサンひとり旅(前編) 

2024年04月05日 ナビトモブログ記事
テーマ:エッセイ

退職する前の話である。

タイのロッブリーでバスを降りた日本人は、ぼく一人だった。
 ここには、バンコクにあるような繁華な街並みもなく、極彩で飾った不夜の店々もない。

日本のガイドブックなどにも、旅行者を惹きつけるような魅力的な記載はない。そのために日本人旅行者が訪れないのではないだろうか。しかし、オジサンひとり旅にとって、この静かでのんびりとした街のたたずまいは、なによりのご馳走である。

ぼくは、オジサンと呼ばれる年代である。退職前に、一週間の休暇がとれたので、ひとり旅を楽しむことにした。若者ではないので今さらバックパッカーでもないと思っている。多少の自由なお金はあるが、お金持ちというわけでもない。そこで、物価が安く比較的治安がよいといわれるタイを選んだ。

脱線する。「オジサン」という魚がいる。透明感のある白身はクセがなく、厚い皮と身の間の脂肪に甘味があっておいしいという。人間のオジサンと同じなどと厚かましいことはいわないが、うなずくところもある(図々しい)

オジサンといっても、男はまだまだ「青春」したいのである。今なら歩き回れるし、人生経験も若者より豊かで、若いときより楽しむ術も心得ているつもりである。そして、単なる物見遊山的な観光旅行ではなく「知的好奇心を刺激してくれる旅をしたい」。

ロッブリーを選んだのは、馴染みの古書店で見つけた、ある「日本婦人」のことが知りたかったからである。「フォールコンの妻」と呼ばれる一人の女性である。

タイは、若いころ仕事で延べ五年ほど滞在したことがあり、簡単な日常会話くらいはできる国である。また、比較的英語も通じやすいので、ブロークンであっても英語とタイ語のチャンポンでコミュニケーションができる。

ロッブリーは、バンコクの北、150キロほどのところにある。
首都バンコクから、鉄道かバスで行くことができる。ぼくは、バスを選んだ。バンコクで投宿したホテルから、鉄道のホアランポーン駅(バンコク中央駅)がかなり離れていたことと、バスの本数が鉄道のそれより多いと聞いたからである。

実際、バスはタイの国内の主要都市をほとんどカバーし、国営、私営のバスが頻繁に出ていることもあって、旅行者にはしごく便利である。ぼくは、エアコン付きのバスに乗った。少々運賃は高いが、ロッブリーまでおよそ3時間の旅、エアコンのないバスで熱風の道を揺られていくほど、ぼくは若くはなかった。

バンコクの市街を抜けると、ドイツのアウトバーンを思わせるような広く直線的な自動車専用道路が延び、バスはアクセルをぐんと踏んで走る。やがて道の両側は、見渡すかぎりの田園風景が広がってきた。
雨季がはじまる5月の中ごろ、大地は恵みの雨を得て、田園にはかぐわしい緑の風が吹き渡っていく。

ロッブリーの街は、官庁などが集まる新市街と、寺院などがある旧市街とにはっきりと分かれ、バスは新市街のバスターミナルに止まった。新市街のロータリーには、警察官の駐在所があった。ぼくは、英語とタイ語のチャンポンで、「安全なホテルを教えてください」と、ていねいにたずねた。

若い警察官は、お国自慢のように、街で一番高級なホテルはここだよ、と地図を広げ、「ロッブリー・イン」というホテルを教えてくれた。しかも、親切なことに、ホテルに行くサムロー(「三つの輪」の意で、後部に幌付きの座席付けた「人力三輪タクシー」)まで呼んでくれた。英語を多少話せて、街のことをよく知っている運転手さんだそうである。

サムローの料金は事前に交渉して決めることになっている。土地カンもなく、料金の相場もわからない初めての街でサムローに乗るのは緊張するが、警察官が呼んでくれたので安心である。ぼくは警察官に「ワイ」(合掌。タイのていねいな挨拶)をして、サムローに乗り込み、ホテルに向かった。

運転手は、青いポロシャツを着た痩躯の男で、40歳代後半といったところだろうか。無口で、小さな目が誠実そうであった。

しばらくしてから遠慮がちに「日本人ですか?」と、朴訥とした英語で聞いてきた。ぼくは、「ポム ペン コンジープン(私は日本人です)」とタイ語で答えた。ホテルに着いてから、青シャツに料金を払い、チップを渡してから、旧市街へ連れてってほしいと頼んだ。青シャツは、はにかみながらもうれしそうに笑い、料金交渉も成立し、一時間後にホテルの前で待ち合わせることにした。

古書店で見つけた、昭和17(1942)年の雑誌『歴史日本』には、こう書かれてあった。「タイ国、以前の逞羅(シャム)国において活躍した日本婦人として、近頃有名なのは、「フォルコン(一般に「フォールコン」と呼ばれている)の妻と称せられる婦人である」

彼女は、いったいどんな女性だったのだろう。彼女の夫であるフォールコンというのは、およそ300年前、アユタヤ王朝のナライ王の宮廷に入り、高官として活躍したギリシア人である。フォールコンは、天主教の宣教師のすすめで、天主教徒の美しい日本人少女と結婚したという。彼女の家庭は、江戸幕府の天主教禁制のため、難を逃れてタイに移住してきたのである。

彼女は、「出自がはっきりしており、教養があり、精神の美しい少女」であったから、フォールコンは喜んで迎えた。と、記されている。しかし、彼女の名前、年齢、日本のどこからやって来たのかなど、くわしいことは何一つ書かれていなかった。

 天主教とは、切支丹のことである。江戸時代、タイに逃れてきた、身分のある切支丹の少女とは、どんな女性であったのだろう。「精神の美しい少女」とは、どういうことなのだろうか。

青シャツは、ちょうど一時間後、ホテルの前で待っていた。タイの人にはめずらしく時間に正確である。ホテルは新市街のはずれにあるが、青シャツの話では、博物館や寺などは旧市街に集中しているという。旧市街には、15分ほどで着いた。旧市街は、ホテルでもらった地図を広げて見ると、周囲をロッブリー川とその支流に囲まれ、街の南側には城壁が残り、ここが、およそ300年前のアユタヤ王朝の城砦都市だったことを教えてくれる。旧市街は小さく、青シャツの話では、徒歩でも十分歩き回れる広さである。

ぼくは、新市街にホテルをとったことを後悔し、次の日からは、ホテルを旧市街に移そうと決めた。
 「旧市街に安全なホテルはないだろうか」青シャツが案内してくれたのは、アユタヤ王朝のナライ王が生涯をかけて築いたという宮殿の前のホテル「アジア」である。

ぼくは青シャツの車を降り、お礼を言って彼と別れた。
(つづく)



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