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北面山・福田寺福性院〜素盞嗚(すさのお)神社 

2011年12月16日 外部ブログ記事
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北面山・福田寺福性院

貞観元年(859) 行教(伝燈大法師)が開基.
弟といわれる益信(大覚大師)に付嘱された寺といわれます。

行教は九州からの帰途、芦田の地に宇佐八幡を勧請、その別当寺として能面山霊光寺を創設、
十一面観音を安置しました。これが福性院の前身です。
 
その後寺運は衰退しましたが、室町時代、この地に福田遠江守が再興し法輪山福田寺と改めました。

慶長三年天災にあい一山焼いたが、同十六年、快真が復興、北面山福田寺福性院と称した。

本尊の木造十一面観音は、像高二十数センチメートルの立像で、三十三年ごとの開扉。






唐破風の向拝をつけた裳階(もこし)付きの本堂。
慶長年間(1596〜1615)の建築


珍しい本瓦葺き二層の多宝塔


本堂の横から裏山への道がありミニ四国の巡所になっているらしいです。


右はいぼの神様(いぼ神)碑

なかなか立派なものがたくさんあり驚きました。


素盞嗚(すさのお)神社

備後一宮です。
境内はJR福塩線に沿うようにあり広い神社です。

境内北には相方城の城門が移築されています。



毎年7月に『喧嘩みこし』が行われる祇園祭があり、たくさんの見物客で賑わいます。

奈良時代に編纂された備後風土記に当社の名称、疫隈国社(えのくまのくにつやしろ)がでています。

仏教が伝来し本地垂迹説(日本に祭られている神々とは仏教の神仏が仮の姿で 現われたもの とする説)の影響を受けて神社名が祇園社、天王社、江熊祇園牛頭天王社と呼ばれていました。

明治時代に出された神仏分離令により、神社名に仏語を用いることが禁じられたため現在の神社名である素盞嗚神社に改名されました。

鳥居
境内の東端大鳥居は、江戸時代中期元禄時代の建立で、柱には建立した別当僧の名が刻まれている。


隋神門


隋神門前の狛犬 うん

隋神門前の狛犬 あ なんかかわいい


隋神門をくぐり神楽殿を見る


4本株立ちのイチョウと左から蘇民神社と疱瘡神社〜神楽殿〜本地堂


手水 龍の口から水がながれ、四隅を餓鬼?が支えています。


拝殿
珍しい瓦葺きで入母屋造
狛犬の台に看板を掛けないでほしいな〜


本殿
拝殿と本殿の間に幣殿があります。
檜皮葺き入母屋造で、備後福山藩の初代藩主水野勝成の再建。


拝殿前の狛犬。尾立て玉乗りの秀作


本殿の南側に蘇民神社と疱瘡神社が長屋式で建っています。


戸手天満宮。
元々は当社の本地」で、神仏習合時期の別当寺・早苗山天竜院天王寺の本堂であった。
江戸時代中期の再建とされ、祇園社(素盞鳴命奉祀神社)に残っているのは全国でもここだけという
貴重な建築物である。
明治維新後、廃仏毀釈の嵐が吹きすさび各地で仏堂の取り壊しが進むなか、厚い信仰心をもつ当地の人々の手により、祭神に菅原道真を奉祀して守り通された。(ウィキペディアより)


相方城から移築されたという城門が二棟あります。
櫓もありましたが1970年代の火災で焼失してしまいました。

城門は境内の北側を通る奈良時代の旧山陽道に面し通称「中門」「北門」として現存しています。
現存する戦国期の山城の城門としては最古級とされます。
平成の大修理補修が施されました。

北門


中門


狛犬が面白いです。


中門内の五葉木瓜紋 宮氏の紋ですが有地氏も使っていたのかも

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