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人生いろは坂

今問われているものは 

2012年01月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 橋元大阪市長が提唱する大阪都構想が現実のものとなろうとしている。むろん実現までにクリア
しなければならないこともたくさんあるようだが、投票の結果を見ると多くの住民が何らかの変化を
求めていることは間違いない。

 日本の政治は長らくの間、三割自治だと言われてきた。地方分権は表向きのことで、ずっと中央
集権化が続いてきた。そもそも税金は必要なところへ平等に使われるべきものである。にもかかわらず
中央政府が地方を制御しやすいように分配してきた。これが長く続いた自民党一党支配の名残である。

 いわば中央政府は予算の実権を握ることにより特権階級としての地位を保ってきた。そして高級
官僚達は、こうしたお金を持参金代わりに天下りを繰り返して来たのである。当然のことながら
お金に人は群がる。背後では、こそこそと裏金の取引が行われ汚職の温床にもなってきた。こうした
悪しき慣例を断ち切るには大鉈を振るうしかない。

 さて、東日本大震災は私達の実生活にも思考にも大きな変化をもたらした。今こそ個々人が自覚を
持って自分たちの将来を見据えるべき時ではないだろうか。支配するものに全てを任せていたのでは
私達の明日はない。

 私は過去のブログで私達の魂が宛てもなく彷徨っていると書いたことがある。終戦によって私達は
戦時体制という抑圧から、ともかく解放された。そして多くの親族を失った悲しみや生きていくための
苦労はあっても明日への希望を繋ぐことが出来た。

 それが励みとなって高度経済成長へと大きな飛躍を遂げた。いわば長き抑圧から解放された反動と
でも言うのであろうか、その力は大きかった。しかし、高度経済成長の行き着く先に見えたものは
バブル崩壊という厳しい現実であった。

 何事によらず、ものごとには限度がある。山があれば谷がある。いつまでも続く成長はないのである。
また、こうした成長に取り残され始めたものも少なくない。追うものは必ず追われるようになる。
逃れようとしても逃れることの出来ないのが、こうした現実である。

 そして取り残されたものの中には社会から逃避するものが現れ、中には精神を病む人すら現れる
ようになってきた。新たなる価値観の前に過去の価値観が否定され、こうした価値観は新たなる問題を
生じるようになってきた。民主主義教育と称する戦後の教育などである。学校や教師の権威が失われ、
学校の教育機関としての価値が問われている。

 この先には明るい未来がある、そう信じてきたものの先に見えたものは何とむなしいものであった
ろうか。そして大量生産、大量消費は物の価値を著しく失墜させ、挙げ句の果てには大量の二酸化炭素
やフロンガスを排出し、気候変動や資源の枯渇をもたらした。

 それどころか人間自らの存続すら危うくしている。未曾有の大災害に見舞われ、そのために営々と
して築いてきたものが脆くも崩れ去ってしまった。まさに幻を見ているような大災害であった。
安全だ安心してくれと言われていた原発も意外に脆いものであった。(私自身は決して安全神話を
信じてはいなかったが)

 私達はもっと自己というものを持たなければならないのではないだろうか。安易に他を頼っては
行けないのだと思っている。しょせんこの世の中は一人で生まれ一人で死んでいくのである。誰を
頼ることも出来ない。また、誰を道連れにすることも出来ないのである。

 諸行無常、無情という言葉は仏教から来た言葉であるが、誠に言い得て妙である。この世の中は
いっときと言えど止まることはない。常に移り変わっている。一瞬先が分からないのが現実である。
禍福はあざなえる縄の如し。それまでは他人事であった不幸が突然我が身のものになることも少なく
ない。また、反対のこともある。一喜一憂することなくしっかりと将来を見据えて生きていきたい。

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