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平成の虚無僧一路の日記

村野藤吾が「千代田生命」に与えたもの 

2012年02月14日 外部ブログ記事
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「村野藤吾」の建築は 300件ほどあるが、そのどれもが、
案内文には 必ず「村野藤吾の設計になる」と、建築家の
名前を誇らしげに紹介している。

「千代田生命」も「わが社で誇れるのは本社ビルだけだ」と
自嘲的に云われた時代もあった。

そもそも、千代田生命は、戦前は日生、第一と肩を並べる
大手だったが、戦後、住友、明治に抜かれ、昭和35年、
創業50周年を迎えた時には、5位に転落していた。

そこで、起死回生を目指して、村野藤吾に本社ビルの建設を
依頼したのだ。「どこよりも誇れる本社ビル」というのが、
社員の士気高揚になるはずだった。

だが、高度成長期、他社が合理化、効率化で突き進む中、
千代田ビルは、それとは真反対の、「ゆとり」と「癒し」の
ビルだった。社員の士気は上がるどころか「のんびり」
「ゆったり」の社風に染められて、千代田は業界8位に
まで転落した。

だが、高度成長期に翳りが見え始めた昭和60年(1985)年
前後、このビルは最も脚光を浴びることとなる。

「モウレツ、壮烈社員」から「人間性回復」「文化的、
快適生活」へと価値観の転換があり「千代田生命ビルは
それを 20年も先取りしていた」として、マスコミの
取材攻勢を受けることとなった。その時、私は広報部に
勤務していて、NHKはじめ、多くの週刊誌、建築雑誌の
取材や、見学者を受け入れ、鼻高々、最高に幸せな時代
だった。

だが 会社は、バブルの崩壊、不良資産の処理に汲々とし、
手段を選ばぬ悪あがきで、ますます首を絞め、にっちも
さっちも行かなくなって倒産した。

私が入社した昭和46年、本社ビルを案内してくれた当時の
担当者が「“ぜいたく過ぎる”という声もありますが、
保険会社にとって不動産は、(大地震などで) 万が一
保険金が支払えなくなった時に、これを売却して支払いに
充てるというための備えでもあるのです」と説明された。

その時 私は それが「有り得ない話」とは思えずに聞いて
いた。そして、それが現実になったのだ。

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