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平成の虚無僧一路の日記

村野藤吾「日生と千代田」 

2012年02月14日 外部ブログ記事
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「日生劇場」ビルは、日本生命が創業70周年を記念して
1959年(昭和34年)に着工、1963年(昭和38年) に竣工した。

このビルは、地下5階、地上8階建で、日本生命東京本店
としての「事務用」部分と、「劇場」部分という 全く
機能を異にするものが、一つの建物に二分して存在する。
構造的にも建築的な芸術の点からいっても、統一と調和を
与えることは、そう簡単な問題ではない。

劇場に来られる客と、仕事に向かう社員とでは、服装も
心づもりも異なる。そこで、1階部分を開放するという
ことにした。当時の日本では、商業的な採算性重視で、
一階を公共の場として開放するということは、前例に
乏しかった。「それを実現してくれたのは、ひとえに
社長(弘世氏)の理解と「生保会社」の特別な使命の賜物で
あった」。と村野氏は述べている。

このように、2つの相反する命題を、見事に解決する
ことが、村野藤吾の真骨頂だった。

「劇場」に窓は必要としないので、ガラスの窓は極力
少なくし、外壁を花崗岩で覆って、建物に重厚な風格を
与えた。

「日生劇場」は「演劇」用のホールなので、 音の拡散を
考えて、天井も壁も曲面の多いものにし、30分の1の模型を
作って、音の響きをテストし、何度も造りかえられた。

かくして、深海か宇宙を思わせる うねりの多い曲面に、
「アコヤ貝」が無数に嵌められ、来場者の目を見張らせる
劇場となったのである。

「日生劇場」は、「劇団四季」とタイアップして、小学生の
子供たちを多く招待してきた。多くの人が、子供の頃に、
この劇場で演劇を観、「日生」という名を心に刻んだ。
そのPR効果は果てしない。

「螺旋階段」は村野の真髄を現すものだが、細く繊細な
デザインは子供達が多く来場する際、危険ということで、
後日、ゴツイものに造りかえられてしまった。


千代田生命が「新本社ビル」を村野藤吾に依頼したのは
昭和35年だから、まさに「日生ビル」の建設のさ中で
あった。村野藤吾は、同時進行で千代田生命の建設にも
意欲を燃やしたのである。

日生ビルが、有楽町という商業地域の中の狭い空間に
建てられたのに対し、千代田は東京郊外の 3,000坪の
敷地に自由に設計できるのだ。

そして 千代田生命ビルは 日生から2年遅れて、昭和
40年に竣工した。こちらは、日生とは対照的に、直線的で
ガラスをふんだんに使ったオフィスビルとなった。

実は 村野藤吾は 千代田生命ビルにも日生と同じように
「劇場」を造ることを考えていた。それは、正面玄関前の
築山の下であった。地下部分だ。しかし余りにも予算を
オーバーするということで断念させられた。

だが、その試みは「新高輪プリンスホテル」で完成されて
いる。

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