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秀麗なる老人 

2012年05月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

多田富雄著「独酌余滴」は、2000年度日本エッセイストクラブ賞を受賞している。私の読書は、もっぱら好き勝手にあれを読んだりこれを読んだりという、これといって目的を持たないが、読んでいる本の中で紹介されている物を読んでみたくなったりすることが多い。そしてまた、その本の話しの中で登場してくる作家の本へと移っていく。それは友達の紹介で会った人と意気投合し、そのまた友達と知り合うということにも似ている。
 
歳のせいか、老人とか、高齢者、老後、介護などという活字が最近やけに目につく。
「秀麗なる老人」は、「独酌余滴」のなかに出てくるタイトルで著者が能の名曲「遊行柳」を見て感じたことが綴られている。私は能のことはとんと分からないが、「遊行柳」は、朽ちた柳の木の精が、老人の姿で諸国行脚の遊行上人の前に現れ、静かな舞を舞うというものらしい。
「秀麗」を辞書で引くと他のものより一段とりっぱで美しいこと、また、そのさま。とあるが、そのシュウレイという言葉の響きには、何か高貴な匂いがして魅力を感じる。
 
この能のなかで舞う老人は、室町時代の作者が描こうとした人間の老いの究極の姿の一つであるが、こんな秀麗な老人を見かけなくなったと、著者はいう。老柳の精の舞を見ながら著者は、新聞やテレビでしばしば取り上げられている高齢化社会の老人のことを思った、といい、次のように語っている。
 
「すぐに思い出すのは、阪神淡路大震災で被災した老人の救いのない日々、福祉の手の届かない寝たきり老人、老いてなお趣味や勉強に打ち込んでいる人たち、人それぞれの老後を生きる姿が紹介されている。しかし『秀麗な』老人の姿を見ることは少ない。振り返って考えてみると、一人ひとり多様な個性を持っていた少年たちが成人になると、おしなべて平均化された大人になってしまうが、今度は成人から老人になると再び多様性を持ったいろいろなタイプの老人が現れる。それが老人という存在を面白く劇的なものにしている。いろいろな老人がいることは社会を豊にする。しかし、『秀麗な』という形容詞が当てはまるような老人はなかなかいない。この役どころだけが日本では少ないように思われる。なぜだろうか、と思った。平均寿命が現在の半分以下だった室町時代にだって老人はいた。人間が生き延びることができる限界の年齢、つまり最大寿命は、環境にかかわらず120歳ていどである。室町時代にも百歳老人はいた。だからこそこの「遊行柳」のような能も作られ、能の「翁」なども演じられたのだ。いま、百歳老人などは稀でなくなった。でも『秀麗な』老人はなかなかいない。老人を秀麗にさせない何かがあるのだろうか。そうだとすれば、この能の中に『秀麗な』老人であるための秘密がかくされているのかもしれないと思い、私は眼を凝らした。
 
老柳の精は静かに舞っていた。能の中心部のクセ舞では、この老人の数々の記憶が物語られる。華やかだった若き日、恋の思い出だってある。遠くなった耳には、ふと若き日の蹴鞠(フットボール)の沓音さえ聞こえて胸をときめかせる。そうした重なった時間の記憶が老人の心を豊かにしている。かつて遊行上人の道案内をしたことも老人の誇りである。それらの記憶が重層した存在としていまここに生きているという老人の自信と誇り。しかし、肉体は明らかに衰え、足元は風に漂うように危うい。気力も萎え、舞のステップさえよわよわとなっているなさけないありさまである。それを思う老人の恥じらいがふと横顔ににじむ。
そうだ、この『秀麗さ』を作り出しているのは、老人の『誇り』と『恥じらい』なのだ。誇りだけだったら単なる強がりに過ぎない。そんな老人は厄介者になってしまう。しかしその裏側にある恥じらいが、老人を優しい親しみやすいものにしている。
そうだとすると、現代の老人に欠けているものは、まさに老いの『誇り』と『恥じらい』なのかもしれない。たしかに今の日本社会では、老人の尊厳と優しさを守ることはますます難しくなっている。・・・・・福祉の対象である弱者としてまず自らを位置づけ、社会に負担だけを要求する立場になったのでは『秀麗な』老人にはなれまい。1世紀に近い時間を生き延び、衰えたりとはいえ、さまざまな時間の記憶に彩られた生を生きている誇りを持つこと、そしてそれが必然的に崩れ去ってゆくことへの名残と恥じらいを心に含んで、初めて『秀麗な』老人の道が開けるのではないだろうか。
 
そんなことは、言うべくして困難であることをこの私自身がよく承知している。そればかりか、この日本という社会自体が『誇り』などという言葉を失ってしまっているではないか。いきおい若者さえ『無恥』を公然としていることを知らぬわけではない。しかし、もし老人の方で『誇り』を回復することがなければ、若者に恥じらいを求めることはできまい。新聞などで、暗い厄介な重荷としてのみ老人問題が報じられている今、誇りと恥じらいを失わない老人がどんなに必要なのかは明白なのである。そうした老人は、逆に若者を力づける。
晩秋のひと日に演じられた秀麗な老木の精の舞は、いま日本の老人から失われかけているものの大切さを語りかけているように思われた」
 
老人とは、いったい何歳からを指すのだろう、と考える。現在、すこしずつその答えが明かされるときが近づいているが、私はまだ老人宣言をするつもりはない。そして、結局は遠く及ばないにしても秀麗なる老人を目指したい。日々研鑽を積んでいけば、一歩でも近づくことになるだろう。老人予備軍の一人として新たな目標が出来た。まさに『読書は師』なのである。
 
 
 
 

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