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両備軽便鐵道跡を歩く ぶら探訪 

2013年03月04日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

両備軽便鐵道跡を歩く  
備陽史探訪の会 ぶら探訪
 
福山市内探訪の際は三の丸広場集合が定番です。
回を追うごとに人の輪が大きくなっています。
過去最高の92人集まりました。

 
大正期に全国に普及していた軽便鐵道
福山〜府中間(22Km)を結んでいました。
大正三年(1914)開通 レール幅は762ミリ(30インチ)
 
ドイツのヘンシェル製2気筒単式飽和式タンク
機関車5両で開業。
10トン級60馬力機関車2両と9トン級50馬力機関車3両の2種が導入されました。
 
奈良津トンネルと機関車


 
このあたりが両備福山駅
東外堀を埋めて建てられました。

往時の両備福山駅 
右後方に福山城天守閣が見えます。


街中に残る石垣

 
軽便鉄道の痕跡

コンクリート片にL状の鉄骨が付けられた物
この下にはまだ埋まっていると考えられます。

胡(えびす)町駅跡
黄色い民家のあたりです。
土橋。昭和五年(1930)石造り橋がコンクリート橋に架け替えられました

赤い橋は願掛け橋?観光用

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惣門

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
弘宗寺(こうじゅうじ)
福山城築城まで神辺(福山市)にあったが、寛永年間に福山城の鬼門守護のため吉津川北岸の永徳寺跡(現:妙政寺)に移されたと云われます。                                寛文六年(1666)に城下北東端(東町)に移される。

初代藩主・水野勝成が福山城築城後に余った木材を寄進し、
次弟で三河藩主・忠胤(ただたね)の菩提を弔うために開基。
 
忠胤(ただたね)は家臣の不始末により家康より切腹を
    命じられ三河水野藩も改易となっていました。                              
                          
 
 
現在の本堂は、山門と共に建立当時の建物と伝わります
 

 
住職の講話を拝聴する。
この寺の初代和尚は蠻江(ばんこう)といい、水野勝成が三顧の礼を尽くし 豊後臼杵から招いたそうです。                                   
勝成は流浪時代に九州の大名家を転々としていたので、その頃、蠻江和尚と知り合ったと思われます。                               
蠻江和尚はのち紫衣を許された高僧で、本山に向かう時には藩から護衛の従者を出し、その数も80人に及んだと云われます。                        
勝成やその子で2代藩主の勝俊の困り事の相談にも
応じたと寺の記録にあるそうです。             お話中は撮る機会が無く終わった時に撮ったので変な画

墓地には忠胤嫡子・勝直夫婦とその娘の五輪塔3基
があります                          

民家に残る吉津駅のホームの痕跡

昭和二十二年の風景  民家はほぼ変わってません

民家の庭にプラットホームの跡がわずかに見られます

 
別に民家の庭にあるレール

列車の物としては小さいと思っていたら参加者の老人がトロッコ用のレールだと
言っていました                                     

橋脚跡

両側に当時の石組みが残っています

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
残された痕跡は少ないですがかつて軽便鐵道が
走った時代を想像しながら歩くのは楽しかった。

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