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感激の古稀旅行−最終章 

2013年05月29日 外部ブログ記事
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例の手術のおかげで、夜トイレに起きることがなくなっていたが、やはり例の液体のせいで一度だけ目が覚めた。確かにあの液体は少なからず身体になにがしかの悪戯をするようだ。
そしてついに旅行最終日となった。出発する時点では雨の予報だったが、天候までこの旅を祝福してくれたのか、良い天気に恵まれた。娘夫婦の部屋で昨日同様朝食を済ませ、しばらくはいろいろな話題に和やかな時が過ぎる。そうそう、ネコの名前は、三毛猫のほうがピカソ、もう一匹がモネという。なんだか二匹ともとんでもなくもったいない名前であった。
 
10時過ぎ、娘たちと車に乗り込み息子の家に向かった。娘の住所は神奈川県横浜市で息子の住所は東京都品川区である。私は車ならかなりの時間がかかると思っていたのだが、意外と早く到着した。近くの商店街に入ったら電話をするように言われていたので連絡すると、道路に出て待っているという。そしてしばらく進んで息子に会うことができた。あいにく中学生の孫娘は、クラブ活動の試合のため留守だったが、私たちが移住生活を始めた年に取得した一軒家は、小さいながら立派なものだった。想像以上に様々なアイディアをこらして生活を楽しんでいる様子に、喜びが体中から湧いてくる。子どもたちは二人とも良き伴侶に恵まれ幸せな生活を営んでいる。
私はここまで70年間生きてきたが、これといって自慢することはない。強いて言えば中学生の時、野球部の試合で一度も盗塁の失敗がなかったことくらいだ。しかし、私には自慢の息子と自慢の娘がいる。そして自慢の嫁、自慢の婿、自慢の孫がいる。私たちはやさしい子どもたち家族に囲まれてつかの間の幸せな時をしみじみと味わった。なんとも心地よい和やかな雰囲気である。
70年といえば、考えてみると長い時間に違いない。いろいろなことに出会い、いろいろな人との関わりがあった。失敗の多い人生だったが、ついに獲得した最高の幸せがここにあった。
 
私たちは子どもたちに連れられて最後のイベントの昼食会に出かけることにした。10分も歩くと最寄りの駅に到着し、みんなで電車に乗り込んだが、しばらくして私たちは荷物を何も持たず、手ぶらで出かけたことに気がついた。話しに花が咲き嬉しさ一杯だったので、いざ出かけるときに荷物を忘れたのだが、ここに来て私の家の伝統的な出来事が起こってしまったのだった。
私たちは乗り換え駅のベンチで待ち、息子と娘が引き返して荷物を持ってくることになり、思い出のハプニングは30分の遅れとなった。道中、息子は私たちの荷物を両手に持って歩いてくれた。そして駅の改札口ではまたハプニングが起こる。子どもたちはカードを持っているので、それを自動改札に照らしてスイスイと進むが、キップを入れるところがない改札もあり、私たちはそこで立ち止まることになる。カード専属の自動改札があるのを知らずに戸惑う姿は、まったく田舎者の年寄りに見えただろうと、今になって笑いがこみ上げてくる。そしてもう一つ、自動改札機にキップを入れると、キップは勢いよく吸い込まれ、進む次の穴からパッと出てくる。人は改札を次々に進むのでそのキップをさっと取って前へ進まなければならない。ところがある場所では、出てくるはずのキップが出てこない。そのキップはその駅で終わりだから出てこないので当たり前なのだが、それを聞いていないのでそのキップでまた乗り換えるものと思っているからこちらは真剣に出てこないキップを疑問に思う。キップを入れる穴がなかったり、穴からキップが出てこなかったりと、小さな騒動を起こしながら目的地の有楽町駅にたどり着いた。それにしても、あちこちの駅で乗り換えたり、いつの間にか地下鉄に乗っていたりと、さっぱり分からないままいつの間にか有楽町に着いたのであった。駅の外に出て振り返るともうどこが駅だか分からない。フランク永井の「有楽町で逢いましょう」を思い出しカメラを向けると、なんでそんなところを撮るのかと聞かれる。子どもたちは不思議に思ったのだろう。私は笑いながらその質問には答えなかった。そして、銀座へ行くのにどうして有楽町なのか聞きたかったが、話しがややこしくなりそうなので、それもやめにしたのだった。
 
学生時代東京で過ごした妻は、その後変化しているとはいえ私よりも詳しい。懐かしがったり、不思議がったりしながら歩いていると、いつの間にかそこは銀座6丁目だった。そして、「懐食 みちば」はビルの8階にあった。当日は私たちの45回目の結婚記念日。私には「もてなし膳」妻には「旬彩膳」が用意され、子どもたちはここの人気メニューのローストビーフ丼を注文。メーンイベントは豪華な料理に大満足だったのは言うまでもないが、めったに揃うことのないメンバーに「おめでとう」の祝福を受けて、不覚にも涙腺が緩む二人だった。今思い出してもあのような幸せな時間は忘れることが出来ないだろう。その後、妻がどうしても行きたいという「私の部屋」で思い出の買い物を済ませ東京駅に向かった。
 
私の古稀の年に結婚45周年が重なり、それを祝うために大相撲観戦を企画してくれた子どもたちに感謝している。私は、自分の親にこんなことはできなかった。それを悔やんではいないが、ただただ子どもたちの優しさと、立派に成長した姿に心は晴々と清々しい思いが一杯であった。
最後の改札口で、目を真っ赤にして私をハグしてくれた娘に、今度は涙腺がめちゃめちゃに破壊して、何度も何度も振り返りながら手を振ったが、妻がどんな顔をしていたのかメガネが曇って分からなかった。息子の大学入学の時、東京駅で別れたのが何年前だったか、その時以来の涙は、私にとって人生最高の涙であった。そして妻は新幹線の座席に座り「これで私、もういつ死んでもいいわ」と勢いよく飛んでいく景色に向かって小さくささやいた。そして、娘がお土産にくれた横綱の絵皿が手の中で震えていた。
 




 
 
 
 
 

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