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人生いろは坂
あかすけの一生
2014年08月02日
テーマ:テーマ無し
何故かこの季節になると思い出すことがある。それは終戦後間もない物資が不自由だった小学校時代のことである。
その頃の娯楽と言えばラジオ放送、そして時々連れて行ってもらえる映画館や旅回りの田舎芝居。そんな娯楽の少ない
時代、小学校で繰り返し見せて貰ったのが「あかすけの一生」と言う幻燈だった。
当時はスライド映写機などとは言わず幻灯機と言っていた。幻の灯である。昔流に書くと幻燈機となる。むろん映す
フィルムもスライドなどと言う言葉はなく幻燈と言えば、それで通じていた時代である。丸い紙でできた小さな筒に
入っていた。
そんな時代に繰り返し見せて貰った幻燈は「あかすけの一生」と言うものだった。「あかすけ」とは赤痢菌の事で
ある。この幻燈は赤痢と言う病気の予防のために作られた啓蒙用のものだったようだ。「あかすけ」と言う赤痢菌が
どのように運ばれ、どのように感染していくかを描いたものであった。
赤痢と言う病気は抗生物質など普及した今では何でもない病気だが、当時にあっては命取りになりかねない重篤な
病気であった。かつ伝染病であったからトイレや井戸など人の手が触れるところや食べ物や飲み物などを介し伝染した。
集団感染等も珍しくない時代であった。
今のような衛生観念など、ほとんどなかった頃の話である。従って、赤痢は比較的身近な感染症だった。私の弟も
夜店で買って食べたするめの甘辛煮が原因で疫痢という病気になった。疫痢とはお医者さんが下した診断結果であって、
本当は赤痢と言う伝染病であった。当時、赤痢だったら法定伝染病となり隔離病院に入院しなければならなかった。
弟が幼かったことと、両親の経済的な負担などを考えて、あえてこのような診断結果を下してくれたのかも知れない。
隔離病棟を持つほどの気が利いた病院など田舎町にあろうはずがなかった。お医者さんさえ数少なかった時代のこと
である。こうして弟は入院することなく済んだが、お医者さんの指示で、私は家族から遠ざけられ本家に一時預けと
なった。そして一週間だったか二週間だったか祖母と一緒に寝起きすることになった。文字通り祖母と一緒のふとんで
寝起きを共にした。
家庭的には深刻な状況であったにも関わらず無邪気なもので本家の従弟たちと終日、カエル釣りなどに興じて楽しく
過ごした。今の子供にカエル釣りなどと言っても分からないだろうが、要はカエルの目の前で糸に吊るした小さな綿の
玉を動かしてやると、餌と間違えたカエルが飛びついてくるという単純な遊びだった。ところがこれが意外に面白い。
従弟たちと飽きもせずに毎日繰り返し遊んだものである。
幻燈でさえ珍しかった時代、今日のように映像技術がかくも進化しようとは誰が考えたであろうか。かつて映画は
エジソンやリュミエール兄弟などが考えた機械によって始まった。パラパラ漫画を機械化したものだと言えば想像が
つくだろうか。写真でさえ珍しかった時代に、その写真が画面上で大写しにされ動くという画期的なものだった。
多くの人が驚き興味を持った。当時の人は活動大写真と言っていた。
その後、映画は無声ではなく音と映像が一緒になった。トーキーと呼ばれた。昭和10年くらいの事であった。
更に白黒映画がカラーになった。総天然色シネマスコープ等という言葉が現れたのもこの時のことである。今でも
マナスル登頂の記録映画が鮮やかなカラー映画だったことを鮮明に思い出す。そして「砂漠は生きている」等も
カラー映画だった。フィルムのサイズも次第に大型化し進化した。ついには映写機を何台か組み合わせて上映すると
言うシネラマが登場した。寝転んでみなければ全画面を見ることが出来ないという大仕掛けなものまであった。
さすがにシネラマは大阪など都会でなければ観ることが出来なかった。私がシネラマを体験したのは「未知との遭遇」
と言う映画であった。最後のシーンで志願者を乗せた宇宙船が空に舞い上がっていく壮大なシーンを今でも鮮明に
思い出すことがある。私の好きなUFOをテーマにした映画であった。シネラマに最もふさわしい映画だ。
映画は進化する一方で斜陽化を迎えることになった。テレビと言う映像送信技術が進歩したからである。白黒から
カラー化へ、そして画面の大型化、更には液晶などと言う技術が進歩するとともに送信技術も進歩した。デジタル化
である。これによって映像はより鮮明になりフィルムによる映像に迫るようになってきた。
「あかすけの一生」のスライドからすれば夢のような進歩である。しかし、映像や音響の良しあしを追求する私の
欲求は幼いころに見た「あかすけの一生」に始まっている。手に入るようになればカメラでもスライド映写機でも
作ったり購入し、それらは私のマニアチックな映像追求の原点になっている。そして今もなおその欲求に終わる
ことがない。
そして映像はDVDになってスクリーン上ばかりではなくお茶の間に進出することになった。ホームシアター等と
言って家の中でも映画館並みの映像と音響を手に入れることが可能になった。わずかに50年から60年の間の
進化である。私にとって「あかすけの一生」は映像の原点にあるものだ。
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