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人生いろは坂

それでも時は流れていく 

2014年08月07日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 STAP細胞の笹井センター長が自殺という報道に接して心が痛む。あたら有為な人を殺してしまったような気がしてならない。
STAP細胞が嘘であったか事実であったかの確認は未だ出来ていない。それよりも白い巨塔の中のおどろおどろしい人間模様が
見て取れる。明らかに自殺と言うより学会ないし理研の殺人とも言える出来事だ。

 さて、梅雨空にも似た鬱陶しい日々が続いている。台風11号とは何とも悩ましい存在だが、これも自然のあり様だと思えば
気に病むほどのものではない。何が起ころうと何があろうと時は流れていく。それは私達に与えられたわずかばかりの寿命の中
での出来事に過ぎない。そして、私が死んでもこの地球の時の流れが止まることはない。こうして地球は46億年もの気が遠く
なるほどの長い年月を存在し続けてきた。

 地球46億年に比較して私たちの世紀は何と言う短さであろうか。針の先にも満たない時の流れである。久々に大空を見上げて
みた。人の運命と言うものを考えた翌朝のことである。遠い昔、青く澄み渡った空を見上げた時、点に見えるほどの上空を渡り鳥が
鍵型になって飛んでいた。そして先日も渡り鳥ではないが点になるほどの上空を一羽の鳥が飛んでいた。あの大空から地上を
見下ろすことが出来ればどんなにか素晴らしいだろうなあと想像の翼を広げた。そして、唐突に思い出したのが母がりの故郷
三瀬谷(今の大台町)の事であった。

 この朝、久々にカナカナと言うヒグラシの鳴き声を聞いた。まだ明けやらぬ早朝のことである。そう言えば母に手を引かれ
夕暮れの山沿いの道を歩いているときに降るようなヒグラシの声を聞いたなあ、懐かしいなあ。あの時のまだ母は若かった。
幼子の私の手を引き乳飲み子だった弟を背に片手には大きな荷物を持っていた。三瀬谷の駅から何里もの遠い山道であった。

 母の里は三重県の山奥、鬱蒼たる山林地帯である。日本でも有数の多雨地帯であり昔から林業が盛んであった。駅に降り立つと
ぷーんと伐採された杉や檜の匂いがするような林業を生業とする街であった。むろん母の里も何町歩という山林を持っている
専業の農家であった。さだまさしの「無縁坂」を歌う度に母のことを思いだす。そんな風景がついこの間の出来事のように思い
出される。

 私の手元に不思議なものが三つある。一つはクリスタルガラスに閉じ込められた三十三間堂の千手観音、そしてもう一つは
畑の中で偶然に掘り当てた石で出来た猿の彫刻である。一つは拾ったものであり、一つは石ひとつないくらい何度も耕された
畑の中で掘り当てたものである。その偶然さは普通の出来事ではない。そう私には感じられたのである。何故なら私の干支は
猿だからだ。

 そして、もう一つが両ますかけと言う不思議な手相である。両ますかけとは手のひらに横一線にしわが走っている。いわゆる
百握りとも称される稀な手相である。生まれてこの方ずっとそうであったから、さして不思議な事とは考えていなかったが、
この手相の解説を見てみると運命的な生き方をした人が少なくない。波乱万丈な生き方をした人が少なくないことが統計上
明らかになっている。片手だけと言う人も稀にいるようだ。

 実はここに「魂の法則」というサイトがある。人は何故この世に生まれ、死んでいくのかを分かりやすく解説してある。
私が幼少のころから常に抱いていた疑問を丁寧に解説したものである。長く探し求めていたものであり、私が漠然とそうで
あろうと考えていたことが、そのままに書かれている。ネットだけでなく本も出版されているので、ぜひ大勢の方に読んで
貰いたい。これを荒唐無稽なものと考える人がいても、そうではないと反論するつもりはない。人それぞれに受け取り方は
自由である。そして、その人の意識レベルで反応も異なるだろう。

 人は何故今の時代を生きているのか、それはその人がこの世に生を受けるときの選択によるものである。自分で選んで
生まれてきた。しかし、選択の時の記憶はこの世に誕生した時に完全に消滅している。しかし過去生は連綿として続いている。
そう考える方が生きている意味を理解するうえで分かりやすいし、これから如何に生きるべきかを考えた時の支えになる。

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