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宇部護国神社 福島越後を祀る 願掛け弾 

2014年09月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

   宇部護国神社

            最初の石段

主祭神は福原越後(元?もとたけ)公
文化十二年(1815)生まれ。六男であるために家督を継ぐことはできず、長州藩士・佐世親長の養子となる推測される。
家老にまで昇進。家老にしては家柄が低すぎることから安政五年(1858)に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄の福原家の
家督を継承した
 
その後、国家老として藩主・毛利敬親)を補佐し、尊王攘夷運動を推進する。
しかし文久三年(1863)文久の政変で長州藩が京から追放されると、来島又兵衛や久坂玄瑞らと協力して挙兵、禁門の変を引き起こした。
元?は蛤御門で大垣藩の藩兵と戦ったが敗れて負傷し帰国した。
 
その後、幕府による第一次長州征伐が起こると、藩内では保守派が主導権を掌握してしまう。
元?は禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯があったため、
保守派の意向に逆らうことができず、西郷隆盛の要求により
国司 親相(くにし ちかすけ)益田 親施(ますだ ちかのぶ)と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、
元治元年(1864年)、岩国の龍護寺で自害した。享年50。
寡黙で果断、温厚でもあり、幕末初期の長州藩政を見事に運営した名臣として、高く評価されている。(ウィキペディアより)

           また石段

           拝殿

        拝殿内にお邪魔

 願掛け弾(砲弾)と左三宝は願い玉(500円)

福原越後翁は禁門の変に於いて越後翁自身は、銃丸が右頬に当り負傷されたにもかかわらず、にこやかに隊伍を整えられたが、戦運無く兵を率いて帰国の途に就かれ、負傷された身ながら兵を先に帰国され自らは遅れて帰国された。その、将たる行動を賞賛、一発の弾の当たるどころか かすりもせず、その堂々たる戦いぶりに弾が避けて行ったという逸話が語られ、戦時中出征兵士の無事を祈る願掛けが行なわれていたと言われ、戦後は慰霊が主体となり願掛けは無くなり、逸話も語られることが無くなったと言われております。
しかし、逸話もさることながら越後翁の忠義の為に命を絶つ精神と腹をかっ切る行動は破邪顕正・悪縁断絶の英雄を連想させ、御神威を頂こうと諸々の願掛けをする人たちの気持ちも分かる気がいたします。
 また宇部護国神社の御祭神は福原越後翁を初め、幾多の戦役事変で戦死された英霊、火消しの職務を全うされた公務殉職者の御霊であり、これらの御霊は、全て日本国の平和安泰や国民の幸せを願っておられた御霊等であり、それを思えば宇部護国神社は3430柱を越える御霊の「願いの結晶」であるといえるのであります。
 今ここに、福原越後元?翁没130余年、また戦後50余年を過ぎ御霊等は完全に浄化され「願い成就の神」として絶大なる御神威・御神徳を授け給うのであります。
よってここに願い成就のお守りとして「願い守り」が誕生したのであります。   宇部護国神社HPより
           願掛け弾



      拝殿脇の福島越後公像

            本殿

忠霊塔         日露戦没記念碑

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  殉国戦士之碑への石段 郭みたい        
         殉国戦士之碑 

          由緒 旧社殿跡

 

年代は不明
吽形は前足が片方崩壊

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
さほど古くは無いですがいい作りの狛犬です

      蚊が多くまいりました
 
 


 
 

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