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 北方八幡宮 山口市阿知須 盛り沢山な神社 

2014年09月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

       北方八幡宮 
        御由緒
創祀は奈良時代の天平勝宝三年(751)、宇佐八幡宮の御分霊を勧請し、賀保庄(現在の佐山・阿知須・東岐波・西岐波)の鎮守として、古尾の地に祀ったのに始まるといわれる。
鎌倉時代の天福元年(1233)、大内氏十五代多々良弘貞のとき、賀保庄を南北に分け、北は須川村長山に、南は吉沢に仮宮を建て、その後、建長七年(1255)、大内氏十六代右田太郎弘家が、北は須田村に、南は山村に移し同様な社殿を建立し、北方八幡宮・南方八幡宮として分祀された。
室町時代の応永十五年(1408)、社殿が悉く焼失したため、大内氏二十一代左京太夫盛見は、公文・領家・地頭に命じて同十七年(1410)より再建に着手し、同年中に楼門を除いて総ての社殿の竣工をみた。残る楼門については、弘冶三年(1557)以来地区民が毛利氏の臣市川経好に対して行った嘆願が実り、元亀二年(1571)に至って漸く竣工したのである。
江戸時代の慶長十年(1605)頃になると社殿は悉く大破し、祭礼当日には社僧人等は路地において神事を執行するほどになった。このころ連年不作続きで、その上疫病が流行したので氏子中は大いにこのことを恐れた。そこで一同は再建費用の勧進をするとともに幕府からも援助を受けて、同十三年(1608)に本殿の上葺、拝殿の造営を終えた。ついで、寛永七年(1630)に舞殿を、同十四年(1637)に本殿を再建した。ただし、本殿については、元文六年(1741)、再び改築をした。
明治六年(1873)郷社に列せられた。同二十一年(1888)、境内地を四段に区切り、石垣をもって整備するとともに、社殿の後方を切り開いて南北に馬場を作った。さらに同四十年(1907)には境内外に環状の競馬場を設け、大正十一年(1922)には、これをさらに拡張・整備した(ホームページより
 
       すぐ前を山陽本線が通ります。

            鳥居が三柱

          正面鳥居

                           大正七年奉納


 
 
 
 
 
 
 
 
         楼門前より

狛犬と燈籠が立ち並ぶ 一番手前の燈籠は享和製

 
 
 
 
 
 
 
文政十一年(1828)の浪速型 いい感じの捻り


 吽形 背面      


 
 
 
 
明治七年 玉乗り正面向き

 
 
 
 
 
 
 
 
面白い顔


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
         立派な楼門

             楼門の細工

        楼門前の砲弾碑
明治二十九年八月   長八〇〇mm直径二五〇位



 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

側面に征清戦勝紀念の刻があります

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
              拝殿 

             本殿

 

 

 

       摂社の赤崎神社

        赤崎神社の対

 
 
 
 
                                           明治八年奉納                

 
       赤崎神社前から楼門
      

   神社のすぐ前を山陽本線が通っています

狛犬、砲弾、楼門、本殿の細工、古い燈籠と見所満載の神社でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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