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朱鷺の“人生七転び八起き”

怒りを使った交流法 

2014年12月07日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


私たちは何か、見るにしても聞くにしても触れるにしても、対象が必要ですね。目で目を見れないように。目は、なにかを自分の外に見て「これは・・・だ」となりますでしょ?目でナニカを見て、その情報は脳に伝わって、脳がそれを「これは・・・だ」と判断するということ。じっさいは、思考も、対象物にならなければ、意識できないものでしょう。それが観察されるものは、観察者そのものである。ということになりますよね。見ているものを、自分の価値観・世界観で見ている。つまりは、自分を見ている。鏡に何かが映っても、映っていると意識しなければ、何も映っていないのと、同じ。つねに、相手となるものと意識する対象があって、それをまじまじと見る。が行われる。たとえば・・・納豆を見て「納豆なんて嫌いだ」という感情が生じる。それを頭の中で、言語化する。これが思考よね。「納豆が嫌いなのに、出すなんて・・」と思う。これは心理的な思考。つづいて「いやがらせか?」と思考すると、怒りの感情が生じる。「納豆が嫌いだということを、相手は知らないのだろう」と思考すれば、怒りには発展しない。「納豆は嫌いなので、ボクは食べません」と教えてあげれば問題なし。だから、まぁ。「納豆が嫌い」なのは、嫌いで問題なし。ですね。嫌いなものがあってはいけない。ではない。これは自然な行為。正常な感情。健全な思考。ただ・・・日常の中で、なにか腹立たしい感情があってイライラして、機嫌が悪い。あるいは体調がすぐれない。なんてことがあると、八つ当たりで、むりやり言いがかりのように怒ることもある。相手が自分より上位だとわかっていたら、怒ることを抑圧する。なんてことも、あるんですよね。すると。怒りの感情というのは「自分は、こうです」という主張の最高級(力技?)の行為と思われます。それは、怒りを使うコミュニケーションということになりますが・・・使う・使わないの判断も即座にしているということなのですから、うまい伝え方があれば怒りを使わなくてすむ。まぁ・・・怒りの正体を知れば、怒りが稚拙なコミュニケーション作業だということがわかる。で・・・使わなくなる。となりそうですが。私の場合でいうと。ホントに本気で怒ったことは、一度もなかった。と今は、わかってます。

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