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人生いろは坂
地球一周の旅から10年(26) パプアニューギニア(英連邦に属する立憲君主国)
2015年01月11日
テーマ:テーマ無し
10年と言う歳月は記憶をも風化させてしまうもののようだ。先のオーストラリア旅行の時に私達は何の買い物もしなかったと
書いたが、妻の記憶では次のパプアニューギニアで土産物を買うことは出来ないので、ここでクッキーなどを買って帰ろうと言う
ことになっていたらしい。そして、下船のことも考えて、そろそろ荷造りもしておかなければならないと言うことで段ボール箱も
捜し歩いたとのことで、これらは私の記憶からは完全に欠落していたことだった。
さて、トパーズ号は、いよいよ最後の寄港地であるパプアニューギニアに向かい一気に北上していた。長い航海も終わってみれば
あっけないほど短かったような気がする。そんな毎日だった。下船に向けて様々な行事が予定されていた。その前に立ち寄る
パプアニューギニアは、かの太平洋戦争時に於ける激戦地であった。この地で多くの日本人が命を落としている。
その一人が私の叔父であった。漠然とした情報なので詳しくは分からない。ただ激戦地から生還した人の話によると、この地域で
叔父の姿を見たのが最後だったと言うことを聞いていた。あの「野火」という小説を読む限り、食べるものもなく、ただ密林の中を
彷徨うだけだったと言うことで、長く叔父の姿が小説の中の人物にダブって見えていた。
私はその思いを作文に綴り、みんなの前で読むことになった。途中から叔父への思いがこみ上げてきて言葉にならなかった。
乗船客の中には戦争体験をした人も少なくなかった。むろん私のように家族がこの地で亡くなったと言う人もいた。そうした人の
代表が、それぞれの思いをメッセージにして読み、後甲板に出て慰霊祭を行った。花束を投げ入れ紙テープが海上を舞った。
こうした洋上行事を行った後にパプアニューギニアのラバウルに到着した。沖合からは火山からの噴煙が見えていた。どうやら
ここも火山活動が多い地域らしい。港は整備されているようであったが驚くほど静かだった。港湾関係の役人らしき人が来て
入港手続きが終わり下船した。現地の子ども達が、もの珍しそうにカヌーを漕いで私達の船に近寄ってきたが、港湾役人に追い
払われてしまった。海水は澄んでいて小さな魚が群れていた。
私達夫婦は戦績地めぐりのオプショナルツアーを申し込んでいた。マイクロバスと言うにはあまりにもおんぼろの小型バスが来て
何グループ化に分かれて、それらの車に乗り込んだ。行先は戦跡地であり、慰霊塔のある場所であった。島内はサトウキビなどが
主たる農産物のようであったが、何年か前に大規模な火山噴火があって火山灰に埋め尽くされたようだ。
そう言えば島内の至る所に黒い火山灰が積もっていた。むろん噴火から何年か過ぎているのでた枯れ残ったサトウキビだとか
雑草が生い茂り、かつてどこが畑だったのか分からないようになっていた。
集落近くの入り口には地元の人達が歓迎の花飾りを作り、それらが道のあちこちにぶら下がっていた。そして集落近くに戦跡地の
一つはあった。ゼロ戦だろうか、偵察機だったのであろうか、半ば火山灰に埋まったものを掘り返したように飛行機の残骸が残って
いた。どうやらラバウル周辺には、まだまだ色んなものが残骸として残されているようだ。
早速、現地の人達による歓迎の踊りが始まり、パフォーマンスとして手近なヤシの木にするすると素手で登り、ヤシの実を
投げ落としてくれた。その場で穴をあけ、私達一行に飲みなさいと勧めてくれた。
慰霊碑は港が見下ろせる高台にあった。途中の道はうず高く積もった火山灰が雨に削られ深い溝を作っていた。とても道とは
呼べないような凸凹の山道であった。
登りきった高台の一角は整備され、大きな慰霊施設が作られていた。ラバウルだけでなく周辺で亡くなっていった日本兵の霊を
慰めるためのものであった。そして今も毎年のように、この地へ慰霊に訪れる人がいて設備はきちんと維持されているらしい。
かつて戦時中は「さらばラバウルよ、また来るまではしばし別れの・・・・」と歌われた地であり、多くの日本兵や軍属が
暮らしていたらしい。また現地の人に対する学校教育も行われ、今も現地の高齢者の中には日本語の話せる人や童謡などを
歌って聞かせてくれる人がいた。
私達が記念館だったか博物館だったかへ行ったとき、老人が親しげに話しかけてきた。妙に人なつっこい人達であった。どうやら
日本人に好意を持っているらしく、得意げに日本語で話しかけてことが印象に残っている。日本軍は、この地では決して悪い印象
だけを残してはいないことが、彼らの接し方で分かる。日本軍は、それなりに教育を施し、別な形で現地との融和を図ろうとして
いたのではなかろうか。少なくともそれまでの欧米各国は、植民地化はしても現地人の教育などはあえてしなかった。
私達は現地で食されている食べ物を楽しみにしていた。実は、この話は二転三転して結局、現地の人達が作ってくれることに
なったのだが、一時は準備が出来そうにないので中華料理にして欲しいと言う話まで出ていた。それが一転して現地の人が
現地で食べられているものを歓迎の意味を込めて作ってくれることになったのだ。
ヤシの葉で葺いた小屋の下に盛り沢山に現地料理が並んでいた。多くは鍋や釜など器で炊いたものではなく、取材番組などで
見るようなヤシの葉に包んで蒸し焼きにしたようなものであった。どれも薄味で、全ては塩味以外、野菜や豚肉などが持つ
天然のものであった。タロイモなど取材記録では見るものの、実際に口にするのは初めてのことであった。バナナも野菜バナナで
あった。全てが加工食品ではない天然のもので、これ以上の健康食品は他にない。温かい歓迎のもてなしであった。
食事をしたのは現地の学校近くであったらしく、昼食を終えた女学生たちが昼休憩をしていた。観光客慣れしていないのだろうか
私達の質問に対し、はにかみながら答えてくれた。
生活レベルは決して高くない。主たる農産物がサトウキビであり、工場らしきものはほとんど見当たらなかった。港近くに唯一
あった工場はペプシコーラの工場だと言うことであった。こんなところにまでペプシが進出していることが意外であった。
最後に訪問したのは市場であった。市場の横には建物があり、この中には種々雑多に輸入食料品や日用品、果ては農機具まで
展示販売されていた。この地で数少ないホームセンターとスーパーマーケットを兼ねたような施設であろうか。その建物の横の
広場が現地の人が多く集まってくる市場であった。
各種農産物は、野菜の他に乾燥したたばこの葉まで色んなものが並べて売られていた。むろん熱帯の果物も魚もたくさんあった。
これらが現地の人が日常的に食しているものであった。
市場にいた頃から急に空が暗くなり、大粒の雨が降り始めた。私達は大急ぎで車に乗り、帰途に付いた。窓ガラスのない車へは
容赦なく雨が降り込み、たちまち車内は水浸しになった。外は真っ暗で雨脚が強く、たった二メートル先も見えないくらいの
激しい雨であった。これをスコールと言うのであろうか。
来た道は、まるで川のようになっていた。港に着いてみると、その川のような道路から直接海の中へと流れ込んでた。
朝、出かけるときには、あれほど澄んで魚の姿も見えていた港内の水が茶色に濁っていた。
この地域一体に水道施設はない。従って、水は天からの貰い水、つまりは家の横に置いた天水桶に雨水を溜める仕組みに
なっている。まあ、一時にこれだけ大量の激しい雨が降るとなれば、大きな天水桶でもすぐに満杯になることであろう。
食べるものも飲むものも欲を言わなければ、それ相応のものを恵んでくれる自然な生き方がここにはある。
聞けばこんな自然豊かな国にも次第にお金に支配される生活が浸透しつつあるようだ。この国の中に地下資源が豊富に眠って
いることが分かり、今は、この収入が国の経済に深く浸透するようになって来たらしい。従って、当然のことながら貧富の差が
生まれ、それに伴い犯罪も増え始めているようだ。国の多くの住民はポリネシア系の人達だ。髪の毛は特徴ある縮れ毛で茶褐色
の人もいれば黒い人もいる。
まだまだ書き尽くせないが、この国の訪問で私達の102日間に及ぶ長旅の大半は終わった。後は日本を目指すだけであった。
私は若者達が中心で主催していた「しゃべり場」をラバウルに着くまで続けていて、いわゆる大人と言われるおじさん達と激しい
ディスカッションを繰り返していた。時にはやり込められ、何とか巻き返そうと早朝から作戦会議を続けていた。
こんな思い出も懐かしいものとなってしまった。
軌跡祭、卒業式など船内で最後となる大型イベントを次々に開催しながら神戸港へ入港した。慌ただしく荷造りしたものを
運びだし、入管手続きを済ませ外へ出てみるとトパーズ号の船体には手作りの横断幕が掲げられていた。その中には私達夫婦の
名前も書かれていた。思わず涙がこみ上げてくるシーンであった。
大声でさようならを叫びながら、やがてトパーズ号は岸壁を離れて行った。神戸港には娘夫婦が迎えに来てくれていた。
久々に味わう日本の空気であった。
実はつい先日、この船で親友となった若い人と久々に倉敷で再開した。ここでピースボートの説明会があるとのことで
こちらへ来たとのことであった。彼は47回のピースボートの旅の後。本格的にピースボートスタッフとなり、その後、
他のスタッフと結婚し、更にはクルーズディレクターと言う重責も任されていた。
次回クルーズでは、再びクルーズディレクターとして乗船し、彼の両親、そして二人の子供を含む家族で北回り航路へと
出発するとのことであった。一家で地球一周の旅が出来るなど、ピースボートならではのことである。
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