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人生いろは坂
春はそこまで
2015年01月16日
テーマ:テーマ無し
連日のように大雪のニュースや荒れた天気の予報が流されているが、我が家の庭ではロウバイが咲き始めた。この花は
ロウバイと呼ばれているが決して梅の仲間ではない。全く異なる別の品種である。この花の特徴は、何よりも他の花に
先駆けて花開く。淡い黄色の花びらが蝋細工のように見えることからロウバイと呼ばれている。実に良い香りの花だ。
その他に小さな鉢植えの三色スミレ、水仙、山茶花等も花開いている。さすがにピンクの美しいバラは枯れかけている。
正月頃までは風に揺られながら一輪だけ可憐な花を咲かせていたのだが。
時の移り変わりは早い、遅くまで葉を付けていた栗の木も先日来の冷え込みと強風で一気に葉を散らしてしまった。
山の畑には寒々しい景色が広がっている。12月に入ってから少しずつ果樹の剪定を行っている。特に落葉果樹を優先的に
行っていて、つい先日は大木となっていた梅の木を一気に小さくした。せっかく実を付けても収穫が出来なくなっていた
からだ。
こうして一冬かけて果樹の選定を行う。何しろその数が多いものでとても一日や二日では終わらない。何日もかけて
行っていく。ビワが大きな実を付けている。こんな真冬にと思われるかもしれないが、11月の末から12月にかけて
花開いたビワは大方が受粉を終わり、大なり小なり実を付けている。これらが既に大きくなりかけているのだ。早く袋を
掛けてやらなければと思っている。
これからはヒヨドリの渡りのシーズンに入る。こうなると渡りの途中で餌になるようなものは、ことごとくついばんで
いく。今までも何度も被害に遭っている。特にエンドウなどは惨憺たる有様だ。そして二度三度と収穫が出来るブロッコリーも
ネットで保護しなければ葉が食われてしまう。
冬の間にもしておかなければならないことが山ほどある。むろん、しなければしないで済むことだが、その結果は
見えている。こうしてせっせと冬の間にすべきことをしておくと翌年の収穫に希望が持てる。農業とはこのような
地味な努力の積み重ねによるものである。世話をしてやればしてやるほど良い結果が付いてくる。
岡山県の笠岡で鳥インフルエンザが見つかったと報じられている。今年に入って既に他県で幾つもの報道がなされ
その度に何万羽という鶏が処分されてきたが、岡山県内での発生事例はほとんどなかった。ついに岡山県までと言う
感じである。どうか他地域への拡大がなく、一日も早い終息が望まれる。
さて、インフルエンザは鳥だけのものではない。今や人間社会に於いても急速に患者数が増えている。まさに全国的な
流行だ。手洗い、うがいなどやるべきことはやり、後は運を天に任せるしかない。しかし、どんなに猛威を振るう感染症
でも感染しない人はいる。あの大流行でヨーロッパ中の人口が激減したと言うペストでも感染せずに生き残った人がいる
のである。これが運命の不思議さと言うものであろう。
今の世の中は論理的、科学的に説明出来なければ納得できない社会になっている。それは私達が子供の頃から科学は
絶対的なもので唯物的に立証できるものでなければ、ことごとく迷信やオカルトだとされてきた。しかし、唯物的に
立証できることは意外に少ない。この宇宙と言う広大な世界の中では、ほとんどが未知なることで、ほんの一部しか
解明されていない。そもそも分かっている範囲の宇宙のことだって想像を絶することばかりである。
現に、私達の足元にある地球のことさえ分からないことばかりである。一番身近な地震でさえも具体的に解明され
始めたのは、つい最近のことである。大地が揺れることは分かっていても、それでは何で大地が揺れるのか分からなかった。
ましてや最深部の地球のことなど想像で話してはみても全く解明されていない。
当の私達自身のことでさえ分からないことばかりである。分からないことばかりだから少し体調が悪くなると不安になる。
私は魂と肉体とは全く別物だと考えているが、多くの人は肉体の働きの延長線上に精神的な働きがあると考えている。
従って、肉体が失われると魂までもが失われてしまうと考えている。だから死は日本人にとって最大の恐怖である。
本当にそれが正しいのであろうか。何も立証されていないから、どんなことだって推測で話すことは出来る。
少し横道に逸れるが考え抜いた末に行動したことが意外にも失敗することが多く、とっさに思いついて行動を起こした
ことで、成功したと言う事例は少なくない。こうしたことは他人の体験話ではなく自分自身が体験できることなので
良く分かる。また、怪我をしていて復帰した直後の試合で意外にも優勝した等とスポーツ選手の体験が語られている。
どういうことなのだろうか。本来なら練習に練習を積み重ね、完ぺきだと思われている方が良い成績であっても当然
なのに、その結果はまるで逆転している。
論理的に説明できないような現象は少なくない。いや論理的に説明しようとする方が無理なのかも知れない。だから
世の中は面白いのだと言える。数奇な運命を辿った人の体験記が紹介されている。そうした人の運命的とも言える
体験記を聞いていると、多少の誇張はあったにしても誰しもが滅多に体験できないような事ばかりである。何でそうなる
のかと思うようなことがたくさんある。
これらは運命と言う自分では予測しがたいことの積み重ねから発している。しかし、選んでこの人生に生まれてきたと
思えば不思議でも何でもない。私達はこの世に生を受け、現世と言うこの世の体験を望んで得るために、この世に生まれて
来た。その人生は実に様々である。一つとして同じ人生はない。全て個々ばらばらである。70億近い人口であれば
70億の異なる人生がある。まるで曼荼羅模様の様である。
人は何を考え何を思おうが勝手である。その思いや考えの延長線上に行動があって、その行動こそが現世での
あらゆる出来事を演出している。地球と言う舞台は、いわば70億人がそれぞれに独り舞台を演じている地球劇場なのだ。
そこでは泣き笑い、怒り悲しみ、それらが壮大なドラマを演出している。
そして、それこそが、他人がどうした、こうしたと言うことではなく、自分自身から全ては始まっていることなのだ。
自分と言う存在がこの地球上になかったら喜びも悲しみも現れなかった。存在しなかった。全ては自分自身と言う存在があって
初めて、そこに現出するものなのだ。そう、あなた自身が主役の世界なのだ。従って、人生と言う大舞台を面白くしようと
思えば自分自身が変わるしかない。他人に押し付けても、あるいは望んでもどうにもならないことなのである。
それは最も身近なものにして然り(いかり)である。昨今、親子で殺し合ったり、傷つけあう事件が多発している。
しかし、自分の身内だと考えるから腹も立つ。どうしてオレの言うことを理解してくれないのだろうか、聞いてくれない
のだろうかと腹だ立つ。身近なものだから分かるはずだと思うのは間違いであって、初めから別の人格と一緒に生活して
いるのだと考えれば納得できることばかりである。他人だと思えば遠慮もあるし、思いやりや気に入って欲しいと言う
思いも浮かんでくるはずだ。
結婚した当初は遠慮もあって優しい言葉の連続であったものが、いつの間にかお互いに自分の一部になってしまい
遠慮する心は失われ、お互いにわがままの言いたい放題になってくる。ましてや兄弟姉妹のように幼い時から一緒に
育った間柄であってみれば、お互いのことは全て理解している、理解してくれているはずだと思い込んでいるのは
大間違いである。如何に一緒の屋根の下で生きてきたからと言って、自我が芽生えてきてからのお互いは全くの別の
人間に育っている。
こうして、あらぬ争いが生じた挙句、簡単に殺してしまう。動物たちに、このような思い違いと言うものはない。
だから餌を巡って争うことはあっても殺し合いまではしない。同じ種同士の殺し合いは、人間だけが有している特徴的な
ものである。
魂があるかないか、あるいは偶然生まれたと考えるか否かは、それぞれの考え方の違いなので、そうではないと
強制することは出来ない。しかし、人生と言う不思議な出来事の数々を繋ぎ合わせていくと、偶然ではあり得ない
と思えるものが見えてくる。それこそが生まれてきた真の姿なのだと考えている。
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