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人生いろは坂
この国のあり様
2015年02月28日
テーマ:テーマ無し
この国はどうやらどこかで進むべき方向を大きく誤ったらしい。川崎の事件はその象徴のような事件だと思うが、
実はこれまでにも似たような事件は様々な形で起きている。また、殺人まで至らないまでも事件になりかねないような
状況は幾つもあった。そして、今もある。
国のあり様がおかしいのは何も隣国だけのことではない。諸外国でも国の上から下に至るまで何かが狂っていると
しか言いようがないことが多すぎる。そんな時代である。何がどうなっているのか。どうしなければならないのか
私達は真剣に考えて見なければならない。そんな時代だ。
春になると思い出されるのは唱歌「春の小川」のような心穏やかな情景だ。いったいこのような情景や時間は
どこへ消えてしまったのだろうか。こうした歌が歌われなくなったのは、私達の心と無関係ではない。やはり
私達一人一人が心の余裕を失い、殺伐たる世の流れに身を任せきっているからに他ならない。
気付いたものが、まずはわが身を正さなければならない。身を任せたままにしていたのではいつまでも良くならない。
それは先の太平洋戦争に至る苦い経験を振り返って見れば分かることである。結局、誰も反対せず、それどころか
戦争を助長するような言動を発してきたのは少なからず国民自身であった。そのことを考えると行動を起こすことは
出来なくても現実から目を逸らすことなく直視していくことぐらいは必要なのではなかろうか。
暴力は日常茶飯事ある。一番大きな暴力は戦争や紛争である。憎しみに走れば必ず対立が起きる。果ては刃物や
武器を持って相手に立ち向かうことになる。こうした事件は日常茶飯事であり、ことの良し悪しは別にして必ず
大きく報道される。そうした報道は澱のように子供たちの心の中へと溜まっていく。それらがやがては子供たち
の行動を暴力へと走らせる。それらは全ては私達大人が作り出した現実だ。その責任は大きい。
私達大人が考えを変え、そうしたことを世の中から一掃しなければ改善にはならない。もし誰か陰から私達を
コントロールしているものがいるとしたら、早くそのことに気付かなければならない。
かつてローマ帝国が繁栄を極めていた頃、剣闘士達の血まみれの闘いを見せ、興奮させ、熱狂させ、民衆の
不満を遠ざけ、支配するものへ不満の矛先が向かないようにしていた。今も似たようなことが行われている。
支配者は陰でほくそ笑んでいるのかも知れない。人間と言うものはローマ時代から進化していないのだろうか。
今も良く似た時代だとは気付かないのだろうか。
今日も武器によって傷つき、多くの住民が家を追われ路頭に彷徨っている。一方、戦争のない平和そうに見える
国の中にも様々な矛盾を抱え、精神的な進化のないままに愚かなる日常を繰り返している。
「春の小川はサラサラ行くよ、岸のすみれや、れんげの花に、すがたやさしく、色うつくしく、咲けよ咲けよと
ささやきながら」まこと私達の幼いころは街の隅々まで長閑であった。そして平和な時間が流れていた。その時間は
幼い私には無限に長い時間のように感じられていた。夕食にコロッケ一個が幸せに感じられた時代のことであった。
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