メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

ZRX1200S城

吉田松陰誕生地・玉木文之進旧宅 萩市 

2015年10月31日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

吉田松陰誕生地・玉木文之進旧宅
松陰神社から坂を上がった場所にあります

萩市街を一望出来る団子岩とよばれる小高い風光明媚な所
中央の丸い山が萩城・指月山


                    
杉家は代々毛利家に仕え、吉田松陰の曽祖父・文左衛門の時代から萩城下川島に住んでいました。
しかし、文化・文政の大火に遭い、文化十三年(1816)、祖父・七兵衛が萩の東郊松本村に転居。


文政八年(1825)、萩城下江向の俳人・八谷聴雨の別荘(樹々亭)を、父・百合之助が買い求め文政十一年(1828)に兄・梅太郎が生まれ、5年後の天保元年(1830)に松陰が誕生。

松陰は吉田家を継いだ後も両親とともにこの場所に住む。


現在、誕生地に現存の建物は無いが、大正時代に設置した間取りを示す敷石が残っています。













吉田松陰先生産湯の井

誕生之地の石碑の揮毫は、松下村塾の門下生・山県有朋

嘉永元年(1848)、一家は松本村清水口に移り
現在の松陰神社境内に生活を移します。


吉田松陰と家族。門下生が眠る




墓前の水盤や花立は、前原一誠や久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一ら門人
17人と妹たちが名前入りで寄進したもの。
当時、松陰は幕府から第1級の大罪人とされており、
その松陰へ対し名前を刻んでの寄進は勇気のいる行動でした。



松陰と金子重輔の銅像














玉木文之進旧宅




松陰誕生地から下った所に玉木文之進旧宅があります
安政四年(1857)に松陰が引き継いだ松下村塾は、もとは叔父である
玉木文之進が、子弟を集めてここで開いたのが始まり。

松下村塾の創立者であり、吉田松陰の叔父である玉木文之進は、
文化七年(1810)萩藩士杉七兵衛の三男として生まれ、
11歳のときに玉木十右衛門の後を継ぐ。


天保十三年(1842)松下村塾を開き多くの子弟を教育した。
松陰先生が10歳で藩校明倫館の助教授となったときの後見人でもある。
性格は謹厳、剛直、明治九年(1876)の秋、前原一誠の起こした萩の乱を阻止出来ず、養嗣子(乃木大将の実弟)正誼をはじめ門弟が多く参加したことから「自己の教育責任を、一死以ってこれを償ふ」と言い、自刃
享年66歳。

建物は木造茅葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか4畳の畳部屋・3畳半の玄関、4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ