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2016年07月16日 外部ブログ記事
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 謡曲・梅田教室

 雨の中、新羽の新しいコミュニティー・センターで梅田教室が開催されました。地元での謡曲レッスンも幾つかのグループがあり夫々に参加していますが、会場の確保が難しくなってきています。毎回綱渡りでこの辺りの会場手配をしながらですので、御世話役は大変です。

 練習曲は「花筐」。範吟は既に最後まで頂いています。梅田教室は8月はお休みになりますので、9月中に「花筐」を終了する予定です。昨日の練習は中入り後の「クセ」。この部分は謡曲の「三難クセ」といわれ、「白髭」、「歌占」に並び称されています。

 また、「花筐」は狂女ものといわれますが、通常の「狂女」ものとは異なっています。アサヒブログの中に「花筐」の不可解さについて下記の興味深い記事を見つけました。面白かったのでそのままコピペで引用させてもらいました。



ー乱調 花筐 −純愛物語ではなかったー

花筐を良く読んでみると、その筋書きと文章の中身に違和感があるように思えるのである。純愛の感情を色々表現しているわりには、文章が説教染みているというか、大上段な所がみへる。どう考えても、継体天皇の皇位継承の争いをベ−スにしていると感じてしまうので、素直に小説の題材に成りえないのかも知れない。其処まで作家が花筐を読んでのことかどうかは 知らないが、これほどの名曲が、近代小説の中でかけらにも扱われていないのを知ったのは、一寸した驚きである。
「朝政神さびて、夜の大殿も徒らに、ただ思いの涙御衣の、袂をぬらす…」
あさまつりごと神さびてとは、私がいないために政治が乱れていると言う事を言っているわけで、継体天皇が都にはいれない状況を指摘している、と読めないだろうか。
「また李夫人は、好色の花のよそおい衰えて・・・」と自分を李夫人になぞらえて、同じ思いのために私も窶れてしまっていると、愛を訴えているのだ。
砧のように単純に離別の恨みを言っているにしては、文章がいささかオ−バ−だ。やっぱりその原因を朝廷の政治に事寄せているのだ。
また例のクセは、謡本の解説では世阿弥作ではなく、観阿弥作の廃曲「李夫人」を挿入したとあり、違和感が有ることは既に知られていたのかもしれない。
「李夫人はもとはこれ、上界の壁妾くわすい国の仙女なり、一旦人間に生まるるとは申せども・・・」
此処などは、自分を天界の女性に事寄せて、自分の姿を反魂香を焚いて現してくれと、強烈な愛の表現をしているわけで、異常である。普通の男ならこんな強要にはたじたじすると思える程の迫り様は一体何だろう。結論を急げば、継体天皇の足もとを早く固めることを主張しているのではないだろうか。つまり皇位の定まらないことに、北陸系勢力の苛立ちの表現ではないだろうか。しかもこの越前の女は照日の前というのである。照る日と言うのは巫女の事である。
倭人伝のなかで、卑弥呼の死後弟が大王となったが、国中治らずやむなく、十三歳のトヨが女王となり国が統一されたことと同じように、女の霊力、巫女の呪術力と言うものが依然として存在していた時代と考えれば、越前の女巫女を早く后にすれば、政治が安定し、大和を治めることが出来ると言う主張と読む事が出来るのではあるまいか。
まだある。天皇に見だされたときの残し文には、
「誘はれ行く雲の上、囘り逢ふべき月影を、秋の頼みに残すなり・・・」と約束の証文を残している。その証文を花筐によみかえて、
「御花筐を恐れもなさで、打ち落とし給ふ人々こそ、我よりもなお物狂うよ。恐ろしや、恐ろしや、世は末世に及ぶといえど、日月は地に落ちず。まだ散りもせぬ花筐を荒けなやあらかねの土に落とし給はば、天の咎めも忽ちに、罰当たり給ひて・・・」
と不履行のときは天罰必至と脅迫しているのである。
日々是好日。

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