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仮装と虚妄の青春 

2011年02月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

最近ただの海での船遊びではどうにも飽き足らずオーシャンレースに復帰したが、以前と異なって意に染まぬことが多い。何より島から島を回る、いわゆる島レースが少なくなってしまい、近くの海でマークを打ってのデイレースがほとんどになってしまった。
 
かつて日本外洋帆走協会で理事をしていた頃創設した沖縄から本土への、あるいは私が会長になって始めた小笠原からの長距離レースは参加艇が皆無で実施できない。数年前久し振りに沖縄レースへのエントリーが三艇あると聞いて、私もぼろ船を駆って出場しようとしていたら他艇はすべてキャンセルとなってしまった。訳を質してみたら全て若いクルーが集まらぬということ。天候にもよるがあの難所続きのトカラ列島で時化に出会ったら、最年少60歳のクルーではとてもフォアデッキの仕事は勤まらない。
 
日本の近海は世界で最も変化の激しい故にも危険な海だが、故にもつきせぬ魅力がある。島によって突然変わる風向き、島周辺の激しい海流等々。いくら測量計器がすすんでも人間には不可知な自然の変化は、いくら計算しつくしてみてもそんな条理も所詮自然には通用しないということを知らしめてくれる。それは人生への自覚にも通じる得がたい教訓ともなるのに、若い連中はそれを嫌う。
 
オリンピックの招致に奔走している間、IOCのロゲ会長と何度か懇談したが彼もまたオーシャンレーサーで、日本のクルー事情について話したら、ヨーロッパでもまた同じ悩みを抱えていると。どうしてこんなことになったのだろうかと慨嘆したら彼が、それは三つのスクリーンのせいだよといったものだった。曰くに携帯電話、パーソナルコンピューター、そしてテレビのもたらした害悪だと。ケイタイとパソコンは最も現代的、最も便利な文明の所産だが、それがその便宜生の故にそれを作り出した人間たちの生活を大きく規制していることは否めない。ある意味では人間の資質を大きく変えつつもある。文明の所産が人間の資質に影響を与えているということに当の人間たちが鈍感なことを、社会心理学者はカルチュラルラグ(文化遅滞)というが、それは下手をすると社会崩壊にも通じかねないとも。
 
ケイタイやパソコンがもたらす過大な情報は、果たして個々人にとっての必要量なのだろうか。若者たちは貪欲にそれを摂取しているとしても、その分析や評価をはたして自分自身が行い得ているのだろうか。ケイタイがもたらす広範囲の他との接触が、果たして人間同士の本当の連帯になり得るのだろうか。
情報の分析や評価を結局また情報にまかせてしまうなら、それらの情報は身体性を付与されているとはいえず真の教養とはなり得まい。真の教養にもなり得ぬ情報への埋没は結局知識の虚妄でしかなく、教養や引いては体験の幻覚をしか育てはしない。それは結局メディア・リテラシーの問題なのだが、それへの反省は一向に見られないが、当節の若者の何とはない自信のなさは実はそれを暗示しているのかも知れない。
 
ヨットのレースにかまけていえば、現代の先端技術に依る諸々の機器を駆使しヨットをいかに合理的に走らせているつもりでも、そんなやり口は外の荒海の時化の中では通用せずすっ飛んでしまうのに、機器にかまけて彼等は海を熟知し海をこなしていると自惚れかねないが、それはただの虚妄でしかありはしない。
 
昨年の夏の一番のにぎわいの五ヶ所湾からのレースでそれをつぶさに体験させられた。酷暑の中微風の遠州灘の沖合で行き来し変化する潮の流れや微妙な風の動きを、私自身は一向に無知ないろいろな計器で計って気にし、彼方の陸地には巨 ( おお )きな積乱雲が立ち上がっていて、それが陸地の高い気温を証しているのに気配りせず、陸に近づけば当然水温と陸の気温との差の間に風が起きるという大気の大きな動きの原理に気づかずかたくなに沖のコースに固執して試合に敗れるという有様は、パソコンの与える情報に縛られ身動き出来ずに、下界で通用せぬ若者を表象していたと思う。
 
思い違い、勘違いは青春の特性であって、それこそが青春をふくらませ彩ってくるのに、それを恐れて激しい恋愛もせず、身のほどを心得すぎて飛躍もせず、他者との横並びに安住する若者には将来の人生が開けるはずはないし、そうした若者ばかりの社会にも未来は開けはしない。人生にはハザードが満ち満ちているのに、それを超えるという危険を試みない若者たちに新しい発想も浮かばず、新しい獲得もありはしまい。
これだけ膾炙 ( かいしゃ )した文明の便宜生を遮断するなどということは不可能に違いないが、便宜な文明が与える情報による仮装と虚妄から未来ある若者たちを解放し、彼等の知識や体験に身体性を付与するために、我々は何をしなくてはならぬかを本気で考えなくてはなるまい。
 
 
ここまでは、産経新聞の月初めに毎月掲載される、石原慎太郎の「日本よ」というタイトルのコラムの2月の記事であるが、難しい漢字がある。
虚妄(きょもう)は、事実でないこと。うそいつわり。うそ。
膾炙(かいしゃ)は、世の人々の評判になって知れ渡ること。
仮装と虚妄の青春とは、見せかけと嘘の青春とでも解釈すればよいのだろうか。
 
瀬戸内寂聴さんの言葉を紹介してみたい。
「このままでは21世紀の日本はないと思います。でも最近は少し考え方を変えたのです。どの分野でも、一芸にすぐれた若者は、自分をしっかり持っている。権威や肩書きにとらわれず、自分の触覚だけに頼っている。それが唯一の希望かも知れません」。
いつの時代でも、どこの国においても、最後の砦は、次の時代を担う若者にあると言うことは間違いない。
 
週に一度の買い物に出かけた。雪が降らないので浅間山も黒い部分が目立ち始めている。
まわりの山々も例年に比べると雪は少ない。日本海側の大雪が信じられない光景だ。
 
パン屋さんのレイヨンヴェールでは、まだ午後1時だというのに、ほとんど売り切れだった。
スミマセンと謝る店主の人の良さそうな態度に、残っている品を全部買いたい衝動に駆られたが、宇宙からのお叱りを受けると大変なので、思いとどまる。
夕日がまぶしいほどに輝いているが、今夜は雪になると言う。予報通りなら、明日は久しぶりの雪掻きになるのだが。
 


 

 

 

 

 
 

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