メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

人生いろは坂

野生と人間社会との距離 

2016年11月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 数年前にもあった私の住んでいる地域でのイノシシ騒動。ここのところ、しばらくはなりを
潜めていたようだが再び活動を始めた。

 つい先日、何となく気になって山の畑に行ってみると、そこら中を掘り返した跡があった。
幸い、山の畑には掘り返されて困るようなものは植えていなかったので何ら被害はなかった。

 近所の人の話では、野菜畑のそこら中が掘り返されて、被害が甚大だと嘆いていた。私も
みかんの収穫が間近だったので、早速ネットで囲っておいた。今のところ果物が目的ではなく
ミミズなどを探していたらしい。

 それにしても数年前に大きな被害を受けたときには、夏の真っ盛りだった。今年は遅い方
かも知れない。知らなかっただけで、近所ではかなり前から出ていたらしい。ここは山が
近いので出ても不思議ではない。

 近ごろ目立って野生動物が街の近くまで出てくるというケースが増えている。ニュースで
取り上げられることも多くなった。何が原因なのだろう。専門家は様々にコメントを述べて
いるが定かではない。

 意外に人間と野生動物との距離は近いのではないだろうか。それは物理的なものだけでなく
もっと目に見えない何かがあって、そのことが近年顕著に表れるようになったのではないか。

 むろん、野生動物たちの住んでいたところまで開発の手が伸びたこともあるかも知れない。
人間が猟をやめて、動物たちが人間を怖いものだと思わなくなった。それもあるだろう。
野山が荒れて食べるものが足りなくなっている。それもあるだろう。しかし、それだけでは
ない何かがあるのでは。

 野生動物と人間の距離が極端に近くなった。それは人間社会の荒廃と言おうか、劣化と
言おうか、何か人間サイドの方に重大な変化があって、それを野生動物たちは敏感に感じて
いるのではないだろうか。そんな気がしてならない。

 私たちは絵空事やあらぬことに浮かれている間に失ったものが多い。それは物質的なものが
増え、それらに依存すれば依存するほど、忘れてはならない心というものが失われている。
精神的な世界は無限である。そして、それらは人間以外のものとも密接に繋がっている。
物言わぬ植物とも、そして動物もと。それらとの繋がりを抜きにして、この世の中は語れない。

 熊や猿が街に出てくるようになった。熊が民家の冷蔵庫を開けて中のものを漁っていた。
アラスカやカナダのように、ホッキョクグマが食べるものがなくて民家に出没するような事件が
起きている。

 原始、人間は野生動物を食べて生きてきた。動物の命を糧にして人間の生を繋いできた。
それ故にアイヌは熊祭を行い、熊の霊を弔ってきた。生きとし生けるものは、何かの命を
犠牲にして、自らの命を繋いできた。

 それは生物の宿命と言うものだ。それ故に私たちは、食事の時は恵みに感謝しながら
「頂きます」と言って食事をするという習慣が出来てきた。これは単なる習慣ではない。
感謝の心を言葉で返す。有り余る食物に囲まれ贅沢を贅沢と考えなくなった私たち。
そうしたことが反動となって野生動物と向き合うようになったのではないだろうか。

 我が家では早速、数年前に買ってしばらくはしまい込んでいた電撃防止柵を設置した。
どうやら効果はてきめんだったようだ。こうして、ここは危険な場所なのだと言うことを
教えてやる。イノシシに対する警告のようなものだ。

 しかし、こういった対策も一人だけがしたのでは効果はないようで、近所中が一斉に
締め出しをしないといけないのだと専門家は言っている。何はともあれ、近所の人は
お宅が電撃防止柵を設置してくれたのでイノシシが来なくなったと喜んでいた。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ