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北軽井沢 虹の街 爽やかな風
ウオーリー・与那嶺
2011年03月03日
テーマ:テーマ無し
先日85才で亡くなった与那嶺要(よなみね かなめ)は、アメリカ合衆国ハワイ州生まれ。父親は沖縄県、母親は広島県からのハワイ移民日系二世。
1951年読売ジャイアンツに入団。戦後初の外国人選手として活躍し、10年間連続で打率3割をマーク、首位打者3回、最高殊勲選手(MVP)1回など大活躍し、第二期巨人黄金時代を支えた名選手である。
産経新聞・産経抄の書き始めが面白い。
「日本の野球が変わった瞬間だった。昭和26年6月19日、戦後初の外国人選手として巨人入りしたばかりの与那嶺要さんは、代打を告げられる。名古屋(現・中日)戦の7回裏、無死1、2塁の場面だ。3塁側に転がすまでは、犠牲バントのサイン通りだった。ところが本人も一塁を駆け抜けセーフとなる。初ヒットは、野球の教科書になかったセーフティーバントだった。」
セーフティーバント(バントヒット)という新しい戦術をもたらした与那嶺は、ウオーリー・与那嶺の愛称で親しまれ、俊足を飛ばしてホームスチール成功11回は、日本プロ野球歴代一位。
現在では、セーフティーバントと言えば大リーガーのイチローが頭に浮かぶが、ゴジラこと松井秀喜は、プロ入り2年目の94年、春期キャンプで臨時コーチの与那嶺から熱血指導を受けている。
1960年のシーズンオフに巨人を自由契約となり、中日ドラゴンズに移籍し。中日で2年間プレーし、1962年に引退した。
その後中日の監督となり、1974年に古巣巨人のV10を阻止し、1954年以来となる20年ぶりのリーグ優勝を果たした。
1994年に野球殿堂入りしているが、日本プロ野球で活躍した数多くのアメリカ人選手の中で、殿堂入りを果たしたのは与那嶺ただ一人である。
そして、少年時代の王貞治との次のようなエピソードがある。
少年時代の王貞治が後楽園球場に観戦に来た際、王少年は多くの観客と同様に、巨人の選手達にサインを求めた。周囲の少年達はサイン用の色紙や本格的な硬球を差し出したが、経済的に豊とは言えなかった当時の王少年は玩具のゴムボールを差し出して誰かのサインをもらおうと頑張っていた。だが、選手も忙しいこともあり、王少年の粗末で目立たないボールは、見向きもされなかった。その時、与那嶺だけが彼のボールに気がつき、立ち止まりサインに応じた。
この経験から王は、出来る限りファンからのサインの要望に応じる姿勢を貫いている、と言われている。偶然ではあるが、与那嶺と王は、1994年同時に野球殿堂入りを果たしている。
私は、中学、高校で野球部に籍を置いた野球少年だった。最近ではあまり野球を見なくなっているが、懐かしい名選手が亡くなっていく度に、昔の野球を思い出す。
昭和20年代から30年代にかけて、日本のプロ野球は川上の赤バット大下の青バット、そして藤村の「物干し竿」と呼ばれた長尺バットと、豪快な本塁打が人気を呼んでいた。
貧乏だった父が買ってくれた中古のスパイクは、微妙に左右の大きさが違っていたが、跳び上がるように嬉しかった事を思い出す。当時のスパイクは底に鉄の金具がついていて、それがすり減ると靴屋へ持っていき取り替えてもらうのだが、新しい金具に付け替えたときは、まるで新品の靴を履いたような心地よさだった。今なら、自動車のタイヤを新しくしたときとまったく同じ気持ちだと感じている。
その後、私の子供がバスケットボールを始めた頃、バスケットシューズをせがまれる事になったが、当時ジョーダン選手が使っているメーカーのシューズでなくちゃいけないという息子に、中古のスパイクの話しをしたものだ。しかし、あのときのスパイクを手にしたときの嬉しさの記憶が、結果的には息子の希望を入れたのであった。
時代は変わり、その息子も父親になっている。もう少しして同じような事が起こったとき、オヤジが買ってくれたバスケットシューズを思い出すに違いない。
今朝は氷点下11℃。最高気温氷点下5℃という厳しい寒さだったが、明日も終日氷点下の真冬日は続く。しかし、雪景色から見える青空に癒されながら静かな冬の一日が過ぎていく。
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