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父−2 

2011年03月09日 外部ブログ記事
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私の両親は兄弟がいなかったので、叔父や叔母という人がいない。当然だが従兄弟も従姉妹もいなかった。幼い頃、そのことに一抹の寂しさを感じていたが、妻の両親は兄弟が多く、結婚してからは義理の叔父、叔母が多くでき、従兄弟も従姉妹も現在でもたくさんいる。
 
その当時、私のお爺さんが九州で生活をしていたため、父は幼いころ、北九州で育っている。父は、両親を早く亡くし苦労した人で、まだ幼い頃、折尾の駅で弁当売りをしていた話しをよく聞かせていた。
「ベント、ベント!弁当に熱いお茶はいかがですか」とか「オセンにキャラメルはいかがですか」と、昔の台詞をおどけて話すときはとても上機嫌の時だ。汽車が走り出しても、走りながら売り続け、おつりを渡せずに儲かったと嬉しそうに話す父はまるで少年のようだった。
蒸気機関車の時代は、現在の電車と違い、動き出してもしばらくは加速せず徐々にスピードが出はじめる。客車の窓をあけて、動き始めた車内からプラットホームの売り子の販売する物を買うという風景は今では見られない情緒のあるものだった。
 
私は物心ついたころには 広島市 内の横川という町に住んでいた。多分3歳から5歳のころだと思うが、4歳違いの弟が横川で生まれているので間違いはないだろう。
父はそこで「代用ガラス」の販売をしていた。「代用ガラス」は、終戦間もないころガラスではなく、ナイロンの紙状のものに縦横に繊維のようなものがあり、透明に近い海苔のようなものでその繊維がとめてあるという表現が難しい品物である。それは、90センチか1メートル幅でクルクルと巻いてあり、鋏で切ることができる。これを窓枠に取り付けてガラスの代用にするので「代用ガラス」と名が付いたのだろう。「代用ガラス」の名前だけははっきりと記憶にある。
原爆投下によって焼け野原となったそのころの広島では、かなりの需要があったに違いない。
よくは分からないが、父はその代用ガラスでかなり稼いだ事は確かなようだ。
 
広島には7つの川が流れているが、その源流となる太田川は横川付近で本川と天満川に別れる。
実は私はその川の分岐点あたりで足を滑らせて川に転落し、運が悪ければそこで短い人生を終えていたのだが、運良く通りかかった船にゴミと間違えられて拾われ、一命を取り留めた。以来、大きな事故には遭っていないから不思議だ。
 
父はその後、今ではもうなくなっている町名の猿楽町(さるがくちょう)へと移り、「富士ヴァイオリン」という会社を興す。それは、日本の竹を蒸して板状にして楽器のヴァイオリンを作るという会社だった。どこでもよくあることだが、昔からある町の名前が合併などでなくなるのは何ともさみしいことである。広島には、鉄砲町とか猫屋町という珍しい町名がまだ残っている。猿楽町は現在の紙屋町あたりで原爆ドームが近くにあり、よく原爆ドームの螺旋階段を上がって遊んだ記憶がある。
 
夏になると、中学生以上の子どもたちは、原爆ドームのすぐそばにある相生橋の欄干から飛び込んで泳いでいた。父は水顔鏡(すいがんきょう)と網で石垣の近くの海老を捕っていた。
水顔鏡は、多分この字だろうと思うが定かではない。長細い箱の形をしていて底がガラスになっている。高さは25〜30センチで側面は斜めになっていて上部は開放になっている。上から顔を近づけて覗くと、底のガラスに水中の魚や海老が大きく映る仕組みだ。これは多分父が自分で考え作ったものだと思う。水着で川に入り、片手で水顔鏡を持ち、水中を覗きながら右手に持った網で海老をすくいとるのだが、7〜8センチの海老をうまく捕って自慢そうに見せる父の笑顔も未だに記憶にある。父は、エビや蟹などを食べるときは、上手にその殻をとって子どもたちに食べさせていた。箸で子供の口へ入れながら自分も大きく口を開けている顔を思い出すと、今でも思わず笑いがこみ上げてくる。
 
その後、次々と新しい事業をしていく父との思い出は、ゲーリークーパーの西部劇、広島カープの観戦、海水浴、松茸狩りなどがあるが、幼い頃、広島は松茸がたくさん採れていた。父は、親戚の山をそっくり買い取り、お得意さん向けに松茸狩りを催し現地ですき焼き鍋を楽しんでいた。
 
腕に銃弾を受け負傷兵として帰国した父は、東京で出会った母と結婚し、東京で私が生まれた後に、聖橋高等専門学校の夜間部に通った時期がある。その時の英語の教科書を大切に持っていたが、それは見事にカタカナで読みが書き込んであった。その中の一節で今でも記憶しているのは「ツーゼントルマンワーシッティングインナストリートカー」。おかしなイントネーションでこの暗記した英語を語り、英語だけは大の苦手で苦労したと話す時の父も楽しそうだった。
そして、これは英語ではないが、この頃に父が使っていた面白いおまじないも忘れられない。
「アブラセンギン ゴマヒャッカン  ネコハチマン モリノダイボサツ シュー」というのだが、転んで鳴いたりしたら、痛いところをさすりながら、最後にシューと言って「なおった」と言うと、よく泣き止んだものだ。
 
つづく
 

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