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平成の虚無僧一路の日記

會津牧原 初代 市郎兵衛直良 

2017年05月26日 外部ブログ記事
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元和5年(1619)、徳川頼宣が紀州55万石の太守に任じられ、
浜松の水野重仲は、御附家老として紀州新宮に3万5千石を拝領。
「平石彦右衛門」とその子「平石勘右衛門」が新宮に移籍するる。
その「平石勘右衛門」が新宮移籍に際して「牧原」と改姓する。
その8年後の1627年、「勘右衛門」の三男として「市郎兵衛」が
生まれる。この「市郎兵衛」が、16歳の時、1643年、会津藩祖
保科正之に仕え、御使番となっている。
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1 平石彦右衛門 ・・1609年 浜松城主「松平忠頼」から「水野重仲」へ 
2 平石勘右衛門・・1619年 浜松から新宮に移籍して「牧原」と改姓
3 牧原市郎兵衛・・1627年 勘右衛門の三男として紀州で生まれ、
        ?  1643年 17歳の時 会津藩へ、御使番として登用される
 
『家世実紀』巻之37「寛文11年(1671)」の項
   1671年4月3日 大猷院様(徳川三代将軍家光)21回忌法事に
   御使番・牧原市郎兵衛を遣わし、数々の進物を届ける
『家世実紀』巻之38「寛文11年(1671)」の項
   1671年11月26日 2代藩主「正経」公、田中三郎兵衛宅へ御光駕(訪問)の際
   御使番・牧原市郎兵衛が 銀三拾枚と時服二着を届ける
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?「牧原市郎兵衛」が会津藩に召抱えられた1643年は、家光の弟保科正之が
出羽山形から会津23万石の太守となった年で、この時、藩士の大量採用があった。
一方、紀州藩では、家臣のリストラを断行しようとしていた。双方の事情が
合致して移籍したもようである。
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市郎兵衛の父親の「牧原勘右衛門」は新宮に留まっていたようで、
1647年の「新宮藩物成帳(家臣録)」に「150石、妻は井出三左衛門(300石)の女」とある。
また1659年の「物成帳」にも「牧原仁左衛門(150石)」とあり。
会津へ移ったのは三男の「市郎兵衛」だけで、「仁左衛門」は 
新宮で家督を継いだ長男か次男か。
しかしその後断絶したか、新宮に「牧原姓」はいない。
ただし、電話帳を見ると、現在 「平石」姓が9軒もある。「牧原」と改姓
した「勘右衛門」は三男だったから、平石姓の者たちは、その兄弟の子孫か。
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