人間観察そして恋そして小説も

唯識の世界 

2017年07月28日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

唯識という言葉をご存じだろうか。唯識を簡単に言ってしまえば「唯(ただ)識(し)ることのみがある」という哲学で、「『私』の見ている世界は『私』が感じたり思考したりしてのみ認識できる。つまり、世界のすべては『私』自身がつくりだしたもの」みたいな思想。「識」は八種類あり、五識(五感)と意識、無意識の領域にある二つの心の末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)がある。五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)五つの感覚。「耳なら音」「舌なら味」というふうに、それぞれ固有の対象を感じる。意識……五識を統合し、「言葉」を使って対象を概念的に把握する。末那識……「我」という心。阿頼耶識……すべてのものを生みだす心。五識も意識も末那識も外界もすべて阿頼耶識が生みだしたもの。おもしろいでしょ。誰もが漠然と一度は考えたことがある、自分とは何か、そんな時一度は思う、この世界は実は夢なんじゃないのかと・・・量子力学の「不確定性原理」の発想もここから起因しているとも言われていますし。「不確定性原理」とは、ある粒子の運動量と位置を 同時に正確に知ることは、原理的に不可能であるとまあ、よけいむつかしいか。極論を言えば、「測定の限界」を意味すると(笑)結局不確かなんだ、確かなものも。同じですよね、唯識と発想の原点は。唯識は、大乗仏教が固まってゆく中で生まれたものであり、根本は、お釈迦様の御教えから外れるものではありません。お釈迦様のお悟りの中味を検証(或いは見性)した上で想像推察して構築されたものだとの考察も。この思想、実は映画、小説、漫画、演劇、あらゆる世界でその思想の根底に潜んでいます。作った側が、知ってか知らずか、それは関係なく。おおよそ己の存在を突き詰めていくと、自ずと答えはある一点に集約されていきます。その集約点にたどり着き、個人を解脱させた時、個々の宗教観は一つに集約されると思うのですが、今は過渡期なんでしょうかね。宗教が原因であちこちで争いが起きています。生き物を殺して良しとする宗教観。どのような理屈をつけようと間違っていると、おそらく誰もが思っているはずです。しかし現実はごらんの有様。テロで自分たちの宗教観を強制しようとする人達がまだまだ沢山います。何が、どこで、誰が、どうして、ボタンの掛け違いをしてしまったんでしょうか。唯我・・・・目を覚ましてほしいものです。否、あるいはこの現実こそが夢なのかもしれませんね  にほんブログ村

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