人間観察そして恋そして小説も

文学論はというより作品の良し悪しを判別するのは難しい 

2017年08月31日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

ラテンアメリカ文学の巨匠ガルシアマルケスをご存じだろうか。若い女性なら、ああん、あれねと目を輝かすだろうが、残念ながらブランド名のガルシアマルケスではない。ラテンアメリカのノーベル文学賞受賞作家のガルシアマルケス・・そう言ってもピンとこない有名な『百年の孤独』がさ・・・」と言うと、多少文学に興味のある人なら思い出すかもしれない。ラテンアメリカ文学、日本ではまだまだ馴染みがない。しかし、こう言ってみればどうだろうか。かの有名な村上春樹が無意識にでも、意識的にでも色濃く影響された文学と。〈マジックリアリズム〉あるいは〈魔術的リアリズム〉という技法を使った、文学。当然日本で言う、ファンタジーとは一線を画する。これこそ、村上作品そのものです。そのガルシアマルケスが書いた物語。「予告された殺人の記録」を読んでみた。なるほど、ラテンアメリカ文学は、面白い。ただ、日本でいうところの面白いとは少しニュアンスが違うが。「予告された殺人の記録」も、普通の読み方をしていれば、あらゆる仕込まれたトリックに気づかず、さらっと読み終わってしまう。結局なんだこの作品、ノーベル文学賞作家もこの程度か・・と思ってしまうかもしれない。しかし紳士淑女諸君。マジックリアリズムの伏線はいたるところにちりばめられているのです。たとえば一文。「ある朝、女中がカバーを外そうとして枕を振ったところ、中にあったピストルが床に落ちて暴発した。飛び出した弾は部屋の洋服箪笥をぶち壊し、居間の壁を突き抜けると、戦争を想わせるような音を立てて隣家の台所を通過してゆき、広場の反対側の端にある教会の、主祭壇に飾られていた等身大の聖人像を、石膏の粉にしてしまった。サンティアゴ・ナサールは、当時まだほんの子供だったが、その災難から学んだ教訓を、それ以来決して忘れなかった」おわかりだろうか。あり得るような話で、そのままスラっと読み流してしまうが、おいおいそんな弾どこにあるんだ、と思わず突っ込みたくなりますよね。いわゆる隠し絵的手法とでも言えばいいんでしょうか、文学の中で、ある種の遊びを取り入れ、その遊びを取り入れる事により、本題のあり得なさにリアリティーを持たせてしまうのです。この文面にマルケスは何を言わとしたのでしょうか。この隠し絵的な面白さ、勿論これだけではありませんが、通常の文学作品とは趣の違った方向性があり、これにはまると、ラテンアメリカ文学の虜になると・・そんな代物なんですが。そうそう、作品には関係ありませんがマルケスをFBIが24年間も監視していた」というニュースが数年前、米紙「ワシントン・ポスト」が報じていましたが、本当なんでしょうかね。で、本に戻りますが。自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、五時半に起きた。書き出しはこれで始まる。つまりサンティアゴ・ナサールが殺されることはわかっている。それは読者だけでなく、作中の誰もが知っているが、知らないのは殺される本人だけ。この出だしからして、人を食っている。しかし紛れもない純粋な文学作品だ。綿密に構成され、セリフも、登場人物のあれもれも一つ一つのピースを熟考に熟考を重ね配置されている。時折「現実ではありえない話を、さもあるように、さらりと記述し読者を欺くユーモラスを練り上げ、(もっともこのユーモアは読み手を選びはするが)とにかく、何の変哲もない、一読すれば普通の小説の態をようするが、実は宝物が埋め込まれている。そんな宝物を見つけ、一人ほくそ笑み、マルケスと喜びを共有する。ラテンアメリカ人らしい発想ではないか。何を発現するにせよ、その中にはユーモアを(時には幻影、魔術になるが)ちりばめ、読者の今ある知識層だれにも共有できるように取り繕う精神。噛めば噛むほど味の出てくる作品。読み手の感性により思惟の花火の大きさが違う作品味わってみてはいかがだろうか。マジックリアリズムの神髄を。  にほんブログ村

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