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唐津城 

2011年05月15日 外部ブログ記事
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唐津城

歴史
文禄四年(1595)豊臣秀吉の家臣寺沢広高がこの地に封ぜられました。

広高は関ヶ原の戦いで東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となりました。



慶長七年(1602)より築城し慶長十三年(1608)に完成


築城に際し廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し九州各地の諸大名の助力を得て築城しました。

二の丸に藩庁御殿が建築されていました。

天守は天守台までしか建築されなかった説が有力です。

現在の天守は慶長期の様式で建築された模擬天守です。昭和41年(1966)に造られました。




寺沢広高の子の寺沢堅高は、天草領の富岡城が島原の乱で一揆側に攻められた責任を取らされ
天草領4万石を没収されました。

正保四年(1647)江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったために寺沢家は断絶となりました。


一時は天領となり、その後
慶安元年(1649)播磨国明石城主大久保忠職が城主となりました。

延宝六年(1678)大久保氏が下総国に転出し、代わって同地より松平乗久が入城。

元禄四年(1691)大給松平氏が志摩国に転出し、同地より土井利益が入城。

宝暦十二年(1762)土井氏が下総国古河城に転出し、三河国より水野忠任が入城。

文化十四年(1817)水野忠邦が遠江国浜松城に転出を希望し、陸奥国より小笠原長昌が入城。
以後明治維新まで小笠原氏の居城となります。

昭和四十一年(1966)5層5階の模擬天守が築かれ、門・櫓も同時に再建された。

平成になってからも堀や石垣や三の丸辰巳櫓が復元されています。


天守閣を鶴の頭に見立て左右に広がる松原が、鶴 が翼を広げた形に似ていることから、
唐津城は別名舞鶴城ともいわれています。


GW中盤です。 曇り&黄砂がひどいです。


模擬天守です。福山城、今治城にも似ています。


看板



石段が結構長いです。上段まで231段あります。
正面登り口となっていましたが大手道でしょう。

高い石垣



藤棚が満開でした。





模擬天守
天守下は工事中でした。



混雑していたので城の中は入りませんでした。

櫓門


展望不良です。


日本三大松原の虹の松原 見えません


しょうがないので猫を撮ってみました。


藤棚しか印象に残りませんでした。


良い観光城でした。
天気がよければもっとゆっくり見たと思います。

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