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柳川 柳川城跡〜御花〜立花家史料館 

2011年05月21日 外部ブログ記事
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柳川

筑後国南部の領主だった蒲池治久が、蒲池氏の支城(本城は蒲池城)として築いたもので、
後に蒲池氏が筑後十五城筆頭として筑後を統括する大名となり蒲池氏の本城となりました。

本格的な築城を行ったのは蒲池鑑盛です。

城の周囲に水路を縦横に張り巡らせた九州屈指の難攻不落の城でした。

蒲池鎮漣(かまち しげなみ)が城主の時、龍造寺隆信や鍋島直茂が2万の兵で柳川城を攻めましたが落城しませんでした。
鎮漣は伯父の田尻鑑種の仲介という形で龍造寺隆信と和睦を結びました。

龍造寺隆信は蒲池との和解のしるしにと鎮漣を佐賀城に誘い襲撃しました。

蒲池氏の200の兵は奮闘するも、多勢に無勢で鎮漣は自害、鎮漣の郎党は全員討死しました。


蒲池鎮漣一族への仕打ちは、龍造寺隆信に対する筑後の有力国人の反発、離反を招き、
龍造寺氏衰退の要因になりました。

蒲池氏滅亡後、柳川城には龍造寺氏の武将である鍋島直茂や龍造寺家晴が入り居城としました。


豊臣秀吉の九州征圧後は、立花道雪の養子である立花宗茂が城主となります。

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの際は西軍に付きました。

鍋島直茂らに攻められ、立花宗茂は激戦の後、黒田如水、加藤清正らの取り成しで降伏開城しました。


関ヶ原の戦い後、西軍側だった立花宗茂に代わり田中吉政が城主となりますが、

江戸時代初期に田中氏が改易になり再び立花宗茂が城主となり、以後柳川藩・立花氏の城となりました。
秀吉、家康にも認められた稀有な大名です。


柳川城跡
中学校、高校に挟まれたところに天守台跡があります。
中学校のテニスコートに面しています。


説明看板

石垣

台上は何もないです
校庭からも撮りたかったのですがクラブ活動をしていたので断念。



御花  

「御花」は立花家の別邸として作られ現在は柳川のシンボルとして愛されています。

川沿いのバイクを止め
まずはソフトクリームを食べました。


お堀




元禄十年(1697年)城の西方に藩主別邸御花が造営されました。
その後、会所として使用され、さらに柳川城より奥機能が移転して「御花畠」と命名されます


西洋館
明治四十三年(1910)に立花家の迎賓館として建築されました


御花屋敷から見た西洋館


御花屋敷、松涛園


日本三景・松島の景を模して作られたとされています



この日は祭りで屋台がでてすごい人出でした。



 立花家史料館
売店の裏にひっそり?とありますが内容はすごいです。



打掛
江戸時代後期
12代藩主立花鑑寛室 純姫所用


立花宗茂肖像


雛人形


Good資料
立花家参勤交代コース
我が廿日市に泊まっています



すべて七代・立花鑑通所用

黒漆塗兜巾形兜
くろうるしぬりときんなりかぶと


黒漆塗六十四間小星兜
くろうるしぬりろくじゅよんけんこぼしかぶと



Good展示
八代・立花鑑寿の復古調具足の全部品を展開して着付順に展示してあります。
下着類から鎧櫃(よろいびつにいっしょに納められている指揮具、御守、折紙(甲冑の鑑定書)
などすべて展示しています。


Great展示
立花宗茂所用・
鉄皺革包月輪文最上胴具足
てつしぼかわづつみがちりんもんもがみどうぐそく


立花宗茂所用
伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足
いよざねぬいのべくりいろかわつつみほとけまるどうぐそく


宗茂所用の具足が並んでいます


横から


歴代の甲冑がならんでいます。


すばらしい資料館でした。
せまいけど内容が濃いです。工夫次第でここまで良い史料館になる見本です。

ここに一時間近くとどまっていたため、うなぎをあきらめなければならなくなりました。

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