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尺八と横笛吹きの独り言

7?の歴史コース・ウオーキングで「入間市・宮寺の歴史」を探る……市役所支所主催…… 

2018年11月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

●宮寺・二本木「いってんべえー」ウオーキング大会に参加しました。埼玉県入間市支所主催。




●郷土の歴史人「宮寺五郎の居館・西勝寺」と村山七党について           
 
●西勝寺
武天皇九代の孫、村山(平)頼任は、今から約九百年前、村山に住み武蔵七党の一つ村山党の祖となった。その子孫は、枝葉のように入間郡を中心に大武士団となり、源頼朝の鎌倉幕府成立に大きな力となった。
村山(平)頼任の子、頼家には四子があり、その二男の家平が宮寺の領主となって宮寺五郎家平と称して、この地に居館を構えたのである。
すでに八百年以上も昔のことであり、この居館跡の全体遺構を見ることはできない

村山(平)頼任の子・頼家に四子があった。長男家綱は入間郡大井町に住んで大井氏を名乗り、三男家範は入間市に住んで金子氏となり、四男家継は所沢山口に住んで山口氏をとなえ、そして二男の家平は宮寺の領主となって宮寺五郎と称してこの地に居館を構えたのである。源頼朝、同義経の家来で源平合戦で名高い金子十郎家忠は、宮寺五郎家平の弟家範の子である。家平の一族と思われる宮寺三郎や宮寺蔵人の名が当時の史書に見えるから十郎家忠らとともに活躍したのであろう。

●西勝寺(宮寺氏館跡)
宮寺氏は武蔵七党のひとつ村山党の武士で、村山頼家の二男・家平が鎌倉時代に宮寺郷の領主となって宮寺氏と称し、この地に居館を構えたとされます。外郭約130m四方で、内部の堀跡・土塁の一部が残存しています。土塁の外側に沿って狭山丘陵からの沢水を利用した水堀が館を囲っていました。周辺には「城ノ腰」「城東」「的場」「的場後」という小字があり、館に関連のある地名と考えられます。また、境内より鎌倉期から室町期にかけての板碑や宝篋印塔が出土しています。(入間市博物館展示パネル)


■ 武蔵七党は武蔵野の開墾者
鎌倉幕府の重要な構成員の中級武士。平安時代後期に京から下向(げこう・都から地方に行く)した中流貴族の子孫で小領主の集団で連合体。彼らは11世紀半ばに小地名を名字としたとされています。

●武蔵七党
平安時代後期から室町時代において、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた、
同族的武士団の総称である。
横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、
丹党、西党、綴党、私市党などが一般的に知られている。

●武蔵七党(むさししちとう)
平安時代末期から室町時代初期に武蔵国を中心に分布していた中小武士団。丹治(たんじ)、私市(きさいち)、児玉(こだま)、猪俣(いのまた)、日奉(にし)、横山(よこやま)、村山(むらやま)の七つの同族的武士団をさす。「武蔵七党系図」には私市のかわりに野与(のいよ)がみえ、『貞丈雑記(ていじょうざっき)』などでは村山がなく、都筑(つづき)を入れている。『日本大百科全書』より。

●次より転載しました。
・武蔵7党分布図
http://kitatu.blog.fc2.com/img/20140814142616a23.jpg/
・網本光悦『イチから知りたい! 家紋と名字』
http://nearfuture8.blog45.fc2.com/blog-entry-1914.html

●村山党(むらやまとう)
平安時代から鎌倉時代にかけて、武蔵国多摩郡村山郷(現在の入間川付近)に勢力のあった武士団の事。武蔵七党の一つ。野与党と同族である。
平頼任が北多摩郡村山に住み、村山氏と名乗ったと言う。村山頼任の子孫とされる一族を村山党と呼ぶ。主な一族には金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などがある。子孫は狭山丘陵の北部の武蔵野の台地上に広がっている。金子十郎・山口六郎は共に台地上の畑地を占め、仙波七郎の居も川越市仙波で台地上で前面には荒川の低地の水田が広がっている。三条町の条里地域の西北方約十キロメートルの地点である。条里の遺構は不明瞭である[1]。彼らの名字の地(本貫)は現在でも地名として入間市金子、入間市宮寺、川越市仙波、所沢市山口などに残っている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

村山党は歴史上は華やかな活動はありませんがそれでも歴史の断面では武蔵七党にふさわしいふるまいも散見されます。具体的には源頼朝が伊豆にて平氏に反旗を翻した治承2年(1180)、畠山重忠(はたけやましげただ、1164〜1205)、江戸重長(えどしげなが、生誕不詳)らが三浦半島の豪族三浦氏の本拠衣笠城攻撃の際、平氏方として村山氏が金子氏を伴って参陣しています。


●「出雲祝い神社」について

本来は「出雲伊波比?社」……「出雲祝い神社」となった。  
南中野にあり。山際に接せり。元寄木明?と稱し、村人は今も「ヨリヰ」様と呼べり。然るに例令焼失數回なりしと雖、社の體裁の古色深き、祭?の素盞鳥尊なる等は延喜式?名帳に出でたる出雲伊彼比?社ならんとの説出で、近年毛呂村飛來明?と共に出雲伊波比?社と稱するに至れり。
 社地は高臺にして、老樹あり。境内幽雅也。社殿も文化、文政の頃までは、本社、幣殿、拝殿、頗る整然たるものなりしが如し。社に弘治三年小田原北條よりの棟別朱印達の文書ありと云ふ。
 又石剱及御シヤク?三本ありと云ふ。村の鎮守也。社後に有名なる茶場の碑あり。
由緒(HPより引用)
もと寄木明神。第十二代景行天皇の頃(約2000年前)、日本武尊が東夷征伐に当たられた時、当地に立ち寄り、天穂日命・天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波比神社と崇敬したことに始まる神社。
 天穂日命の子孫が、出雲国より当地にやってきた際に樹種を携えて播種したのが、出雲祝神社の社叢で「寄木の森」といわれているという。

●ホッタラケの島・fueブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/shakuhachi_fue/53802416.html


●「ととろの木」と呼ばれています。

●宮崎駿さんも ... トトロの映画に出てくる象徴的な大きな木は確か「クスノキ」でした。
 

●西久保観世音の鉦(かね)はり……埼玉県指定文化財(無形民俗文化財・平成28年3月15日)

 

 安産祈願で有名な西久保観音堂で、1月17日と8月17日におこなわれる鉦はりの行事は、うちならす双盤鉦と太鼓のバチがリズミカルに調和し、念仏の唱和と相まって無我の境地に誘いこむものがある。昭和45年1月7日に市指定無形文化財に指定(昭和52年文化財保護法の改正に伴い「無形民俗文化財」となる)、平成21年3月17日に県選択無形民俗文化財となり、平成25年度には保存会や博物館による映像記録保存事業が実施された。

●YouTube西久保観世音の鉦はり
https://youtu.be/WFKsgD2ALqE

●かやの木(榧木)……(市指定文化財・天然記念物・昭和42年5月6日) 

●かやのき
西久保観世音(にしくぼかんぜおん)の境内にある。カヤの木はイチイ科に属する常緑高木で、葉は偏平線状、革質で厚く、先端は鋭い。根回り4.3メートル、高さ23メートル、枝張り15メートルで南北に伸展している巨木である。伝説によると、奈良時代宝亀年間に沙弥延鎮が前庭に植えたという。樹齢約800年で市内第一の古木である。

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