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古代〜大和政権誕生(2) 

2018年12月06日 外部ブログ記事
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古代〜大和政権誕生(2)

日本は「倭」命名されていた
 ☆『漢書』をはじめとする古代中国の歴史書には、日本は「倭」と書かれている
 ☆「倭」という意味は「小さい」「従順な」という意味がある
 *いい意味を表わす文字ではない
大和朝廷が生まれるまで
 ☆日本初の統一国家となったとされる邪馬台国
 ☆百田氏は、邪馬台国が大和朝廷になったのではないと考えている
 ☆大和朝廷は九州から畿内に移り住んだ一族が作ったのではないかと考える
 ☆記紀(神武東征)にも、そのようなことが書かれている
 *初代天皇となる神武天皇は九州から瀬戸内を通り、大阪平野に入ろうとするが、長髄彦と戦って敗れる
 *神武天皇は大阪を大きく迂回し、和歌山の熊野から大和平野に入る
 *その地で力を蓄え、あらためて長髄彦と戦つて破ったと記紀に書かれている
 *神話にしては、妙にリアリテイがある
 *わざわざ負けた話を創作するのも不自然である
 *熊野は古来、大和朝廷にとって神聖な地である
 ☆「神武東征」は真実であったと私は考えている
 *神武天皇が邪馬台国の末裔かどうかはわからない
 ☆『魏志』「倭人伝」には、邪馬台国は狗奴国と戦っているという記述がある
 *狗奴国が邪馬台国を滅ぼしたのではないかと見ている
 ☆神武天皇は邪馬台国を滅ぼした狗奴国の流れを汲む一族の出身ではないだろうか?
銅鐸の謎
 ☆百田氏が、神武東征を事実と考える根拠の一つが銅鐸である
 ☆2〜4世紀頃の日本には、銅矛文化圏と銅鐸文化圏があった
 *畿内から中国地方の東部が銅鐸文化圏
 *九州から中国地方西部が銅矛文化圏
 ☆二つとも青銅器であるが、銅矛は武器であり、銅鐸は祭祀に使われた
 ☆銅鐸は3世紀頃から突如として使われなくなった形跡がある
 *中国地方(特に出雲)の遺跡から発掘される銅鐸は、無傷であることが非常に多い
 *大和平野の遺跡で発掘される銅鐸は壊された形で見つかるものが多い
 ☆大和平野といえば、大和朝廷の最初の本拠地だ
 *その地から発見される銅鐸の多くが、人為的な力を加えて破壊されている
 *征服民が被征服民の宗教を弾圧し、その施設や祭祀の道具を破壊する行為は珍しくない
 ☆奈良にあつた銅鐸文化を持った国を、別の文化圏の国が侵略し、銅鐸を破壊したと考えれば辻棲が合う
 *神武天皇に率いられた一族が銅鐸文化を持たない人々
 *大和平野に住んでいた一族が銅鐸文化を持つ人々
 ☆神武天皇の一族が銅鐸を破壊したとしても不思議ではない
 ☆後に大和朝廷がじわじわと勢力を広げ、中国地方の銅鐸文化圏の国々を支配していく
 *被征服民たちが銅鐸を破壊されることを恐れてこっそりと埋めたとは考えられないだろうか
 ☆『古事記』と『日本書紀』には、天照大神が大国主命から葦原中国を譲られる話(国譲り神話)がある
 *葦原中国は出雲あたりと考えられている
 *大和朝廷が出雲地方を征服した話が「国譲りの神話」となって残ったのかもしれない
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』






古代〜大和政権誕生(2)(ネットより画像引用)

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