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益田(七尾)城 

2011年06月27日 外部ブログ記事
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益田(七尾)城

益田氏は永久二年(1114)藤原国兼が石見国司として石見に赴任するために下向し
現在の浜田市に赴任したことに始まります。
その際、石見上府(浜田御神本)に拠点を構え、御神本氏を称しました。

任期終了の永久六年(1118)以降も石見に留まり続け、そのまま土着豪族化しました。

4代兼高が石見で最も広い平野があり、交通の要衝と港に適した益田に本拠を移し、
益田氏を名乗るようになりました。

兼高は源平争乱時に周囲が平氏を支援する中、源頼朝の命を受けて壇ノ浦の戦いで手柄をたてるなど着々と力を蓄えました。

益田氏は鎌倉時代初期には石見の約3分の1を治めるようになり、室町時代から戦国時代にかけては、周辺の大勢力と巧みに結び、石見での地盤を強固なものにしていきます。

三隅・福屋・周布氏などの庶家を国内に分出し、彼らも御家人として幕府に把握され、
独立性を持っていました。

建久九年(1192)四代兼高の代に居館を益田に移しこれ以降益田氏に改めました。

11代兼見は山口の大内氏と結び、石見の豪族たちの指導的立場を確立しました。

15代兼堯は応仁の乱(1467)をはじめとした数々の戦乱で多くの武勳をたてるなど、
その一生は戦いの連続でしたが、文化への深い理解者でもありました。

大内氏の保護下にあった雪舟が、15代兼堯の招きで益田を訪れたのも大内氏との関係によるものでした。
雪舟作「益田兼堯像」は厚遇してくれた兼堯へのお礼といわれています
                               (益田市ホームページより)


大内氏の重臣陶氏と親類関係となった益田氏(19代藤兼)は、毛利氏や津和野の吉見氏など周辺勢力と対立しました。


藤兼は陶隆房(晴賢)のクーデターに協力しまた軍事的指揮権を持っていたようです。

周布領内で誅罰した相良虎王{大内義隆の側近・相良武任(たけとう)の子}の首を
隆房に送っています。

その他の母、女子の処置を藤兼に任せる由の書状が大内家の奉行(陶隆満)から送られています

陶隆房(晴賢)が吉見氏の奮闘で津和野に釘付けになっている隙に
毛利が蜂起するという切迫した状況になり、吉見氏と和解し毛利に対峙する必要に迫られました。

主家を討った逆賊の手前、表に出られない陶隆房(晴賢)に変わって
藤兼が幕府派遣の上使に交渉、尼子を説得させ大内尼子間の和平を実現し
これにより吉見正頼との和談に持ち込みました。


陶晴賢が毛利元就に敗れると、藤兼は毛利軍の一翼として山陰攻略にあたっていた吉川元春を仲介者として毛利氏と和睦しました。

元春が益田氏と和解したとの連絡を受けた毛利元就は
吉見氏の関係から到底承服しがたいとの書状を児玉氏あてに送っています。くどくど長いです。

まだ且山城に大内義長、内藤隆世が篭っている時期だったので吉見氏との連携が大事と
考えたのでしょう。

もう一通元就から児玉氏へ
なお益田の事、近頃粗忽の仔細にて候・・・で始まる文書が残っています。

藤兼と和談するのは軽率だが、あまり明白に排除する素振りを見せるなという趣旨のものです。

この後、井原城築城から動員され始めます。


永禄十一年安芸国吉田・郡山城に次郎を伴い訪れています

このとき、毛利氏一族に数々の贈り物をしたことが益田家文書に残っています。
この中には虎の皮など海外の品もあり、益田氏が大陸と交易していたことが当時の朝鮮の書物「海東諸国記」にも記されています。 
七尾城本丸跡から望む平野と、七尾城から益田川を伝って続く三宅御土居跡、さらに日本海へ広がる景観は、まさに益田氏の海洋領主的性格を彷彿とさせます。 

和睦した益田氏は毛利氏に重用され、20代元祥は元服の時に元就から「元」の一字をもらっています。
そして石西はもとより出雲、長門、さらには九州まで領地を獲得しました。

領地も人命も大きく失うことなく戦乱の時代を生き延びた益田氏は、徳川家康から領地を保証するという打診を受けていましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏に従って、長門の須佐(現在の山口県)に去っていきました。元祥は永代家老として、財政難にあえぐ主家の財政立て直しに優れた指導力を発揮しています。



                     
七尾城図


説明版


七尾城想像図


萬福寺からみた七尾城 
左の赤い瓦の建物は益田歴史民族資料館
前は益田川


七尾公園から上れます。


階段が約300段


山の中腹にある住吉神社


赤鳥居下からの益田市展望


城への道
この日、丁度草刈をされていてとても登りやすかったです


草刈のおかげで竪堀跡?もくっきり


まずは西のほうへ


西方へ続く道


展望


千畳閣の道標が倒れていましたがここから上がれるようです。


藪化してました


なんとか先端まで着きました。
土塁跡かな?


横から。この下に何層も郭があります。


千畳閣の道標から西。上からみた様子から行くことも無いと判断


本丸方向へ向かいます。


厩(うまや)の壇


厩(うまや)の壇
説明版


馬釣井


帯郭説明


ここで画像一杯です。
本丸編に続きます。

暑さは木陰のおかげでたいしたこと無いのですが
うまやの壇から蚊が多く立ち止まるのも困難になりました。

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