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人生いろは坂

夫婦活弁士物語2 

2019年11月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 今日に至るまで少しでも活弁という文化を多くの人に知って貰いたいと言う思いから、
ボランティアで活弁士を続けています。また今では違和感なく活弁士として通用するまでに
なりました。

 昭和10年頃にトーキー映画が上映されるようになるまで長きにわたって活弁は一世を
風靡し、多くの観客を沸かせてきました。

 私としてもその時代の経験ないだけに今回の『カツベン!』という映画が、どのように
映画化されているのか非常に楽しみです。

 今回は金光教本部図書館から依頼のあった活弁について触れてみたいと思います。
 
 実は私たちが活弁をやり始めてからは、数々の不思議を体験して来ました。
私たち夫婦は、私が定年になった2004年に縁あってピースボートに乗り地球一周の
旅をしました。

 この長い船旅の途中で出会ったのが、プロ活動を始めて間もなかった佐々木亜希子弁士
でした。佐々木亜希子さんは友人に誘われて行った澤登翠(さわとみどり)さんの活弁に
すっかり魅了されてしまいました。

 以来、活弁士になりたいという一心から澤登さんの追っかけをし、2001年に活弁士
としてスタートしたばかりの頃だったようです。

 そして2004年の南回りクルーズの時にピースボートから誘いを受け、水先案内人と
なって乗船してきました。

 噂には聞いていた活弁士、興味津々で活弁の場に臨みました。ところが私の想像とは
異なり拍子抜けするぐらい軽々と活弁をやってみせたのです。映画が終わってみれば、
うら若き女性がスクリーンの傍らで語っていたという有様に、私だけでなく会場に
居合わせたみんなは、すっかり活弁士と活弁に魅せられてしまいました。

 私は明けても暮れてもこの経験が忘れられなくなり、2005年船を下り帰郷してから
地元に活弁士を呼びたいと強く思うようになりました。

 幸い、私の提案に賛同してくれた児島文化協会の事務局長の支援の元で第一回目の
児島活弁シネマライブを開催することが出来ました。

 以来、紆余曲折はありましたが10回を数えるまで続けることが出来ました。一時は
500人もの人が詰めかけてくれるようなこともありました。

 その佐々木亜希子活弁士を地元に呼ぶことが出来るようになるまでに不思議な出来事が
あったのです。それは電話交渉だけではいっこうに進展せず、仕方なく東京まで出向いて
話し合いをしたときのことでした。

 自費での上京でしたので宿泊先は鶯谷にあるホテルパインヒル鶯谷でした。
そのホテルは偶然にも佐々木亜希子弁士たちが東京で活弁口演をスタートさせた
「東京キネマ倶楽部」の真ん前にあり、活弁口演の度ごとに打ち合わせに使われていたのが、
他ならぬホテルパインヒル鶯谷だったのです。偶然とは言えないような出来事でした。

 おまけに同じビル内にあったダンスホールこそ周防監督が映画撮影に使った
『Shall we ダンス?』の舞台となったダンスホールだったのです。

 その周防監督がこの度、久々にメガホンを握り作ったのが、他ならぬ『カツベン!』なる
封切り直前の映画なのです。

夫婦活弁士「むっちゃん かっちゃん」の連絡先
090−7543−1640

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