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「戦犯第一号、東条を逮捕せよ!」77年前、東条英機は世田谷区の自宅で自決未遂 

2022年09月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



東條英機元首相兼陸相は、1945年9月11日、世田谷区用賀一丁目10−4(現・立正佼成会世田谷教会)の自宅でピストル自決をしましたが、一命をとりとめました。


河出書房新社刊「新装版 図説―東京裁判」には、詳細な状況の記述がありますので転載します。



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 戦犯第一号、東条を逮捕せよ! 戦犯容疑者の逮捕は東条英機元首相からはじめられた。 9月11日午前11時、ソープ准将はクラウス中佐に東条逮捕を正式に命令した。クラ ウス中佐はただちに二個分隊を連れて横浜の 駐屯地を出発、やっと突きとめた東京・世田谷の東条邸に向かった。 一方、マッカーサー司令部は午後2時に、 東条大将に逮捕命令が出されたことを記者発表した。各国の記者たちは先を競って東条邸に向かってジ―プを飛ばLた。 この日の午前、東条は赤柴八重蔵陸軍中将((昭和20年4月から近衛第一師団長から第五十三軍司令官)と某大佐の来訪を受け、離れの一室で5時間近くも話し込んでいた。なにを話していたのかはわからないが、赤柴中将たちを送り出すと、書斎に入った東条は大きな瀬戸火鉢で人名簿や書類を焼きはじめた。のちに勝子夫人は「あとで思い合わせますと、東条には、すでにその日の午後起こるであろうことが、はっきりと予想されていたような気がしてなりません」と回想している。 午後の3時半過ぎ、外国特派員たちが到着しはじめ、東条邸は急に騒々しさにつつまれ た。そして時計が4時をまわろうとしていたとき、「オタクの屋敷の周りが進駐軍の自動車で囲まれてます!」「オタクの屋敷の周りが進駐軍の自動車で囲まれてます!」近所の主婦が東条邸に駆け込んできて、急を知らせてくれた。 東条勝子夫人の手記「面影」(林逸郎編著『敗者』所収、二見書房刊)によれば、以後の東条逮捕劇はおおよそ次のように行われた。 ――最悪の事態がきたことを、私も悟りました。東条は、すでに予想していたのでしよう、平素と少しも変わらぬ表情で、私を見つめ、「いよいよきたか」と書きものの手を止めて静かにいいました。「しかし逮捕されたりすると、考えただけでも耐えられぬことだ、いやなことだからね・・・・」「その御心配は……」と私がいいかけますと、 東条はやや声を高めて、「お前ら(私と女中のことと思います)すぐ、古賀のおばの家(長谷川)へ行け、長谷川の家へ 行っておれ……」と、珍しく厳しい口調で申されました。 私はすなおに、夫の言葉に従うべきことを悟りました。すぐ女中をよび秘書の畑山さんと垣内という憲兵の方に、あとのことをお願 いしてから、最後に、私は、これがお別れの言葉になるかもしれない、とひそかな思いをこめて、東条の冷静な顔を見つめていいました。「あなたの思い切りのよすぎる御性格が気がかりでございます。また、御念の入れすぎる ことも・・・・」 東条は、大きくうなずきながら、う、うんと低い声で、心配するなというふうにいわれました? 古賀とは、東条の次女の夫の古賀秀正陸軍少佐のことである。近衛師団の参謀だった古賀少佐は、敗戦の日の八月十五日に自決していた。 夫の言葉に従って家を出たものの、夫人は 親類の家には行かなかった。お手伝いさんだけを行かせ、自分は隣家の鈴木医師宅を訪ねた。そして鈴木夫人に頼んで麦わら帽子を借り、裏庭に入らせてもらって草取りをしているふりをしながら、わが家に視線を走らせた。 夫人には、東条が自決をする覚悟でいることが手に取るようにわかっていたからである。? 大通りから東条家に通じる坂道を三台のジ―プが登ってきて、夫人の目の前で停まった。 五、六名のアメリカ兵が降り立ち、東条家の玄関に向かっていった。? 「誰一人私のことに気づいたものはなかったようです。しかし私の胸は早鐘のように、激しく鳴っているのが、自分でもはっきりと感じとれました。けれども、私はじっと耐え忍んでうずくまっておりました。私は自分が草をとっているふうを装うことも忘れ、全身を耳にして人々の動きや、物音に心を傾けていま した」(前出「面影」)?? 拳銃で自決を図った東条大将 勝子夫人を送り出した東条は、平服を軍服に着替え、玄関脇の応接室(書斎兼用)に入り、部屋の中央に置かれた椅子に座った。そして 秘書の畑山と憲兵の垣内に言った。「お前らは、外に出ておれ」 二人が応接室を出ると、東条は中から鍵をかけた。ほとんど同時にMPたちが庭先から玄関に近づいてきた。東条は庭に面した窓の上部を上げ、隊長らしき米兵に言った。「日本語のわかる者は来ているか」 クラウス中佐は「いる」と答え、玄関のドアを開けるよう要求した。「なにをしにここへ来たのか?」 東条の問いに、クラウスは叫んだ。 「マッカーサー司令部に行く用意をしなさい、 早く!」 東条は返した。「では、逮捕状を持ってきたか」「連行状を持ってきた」 東条は納得したようにうなずくと、「よろしい、いますぐ行くからちよっと待ってくれ……」 そう言ってガラス窓を閉めた。 応接室からピストルの発射音が轟いたのは、それから間もなくであった。隣家の裏庭に潜む勝子夫人もその音を聞き、応接室に向かって合掌した。午後4時19分だった。 MPたちは玄関のドアを蹴破り、さらに応接室のドアも蹴破って乱入した。東条は左胸を撃ったらしく、白いシャツが血で真っ赤に染ま っていた。ピストルを床に落としていた東条は、やや仰向くような姿勢で椅子にかけていた。 MPたちに続いて応接室に飛び込んだ秘書の畑山は、「閤下!」と叫び、東条に駆け寄っ た。「畑山、水……」 秘書の声を聞き分けた東条は、つぶやくようにロを開いた。 そして勝子夫人は、のちに畑山秘書から聞いた話として、前出の手記にこう記している。 「畑山さんがコップに水を満たして引きかえしますと、東条はその水を一気にのみほし、 更に、二杯目を要求しましたので、再びコップに水を満たして、東条のそばへかけもどっ たそうです。するとMPの一人が、そのコップをひったくり、いきなり畑山さんを突きとばしたということです。水を飲めば出血がいっそうひどくなることに気がついたからかも知 れません」 血だらけの東条は応接室にあった寝台用の長椅子に移され、救急車が呼ばれた。あらかじめ用意されていたのか、救急車は十分ほどで到着した。乗ってきた二人の医師は応急手当を施すと、東条を横浜市本牧一丁目の大島国民学校に開設された米第98陸軍野戰病院第30号室に搬送した。そしてただちに手術が行われた。小型ピストルの弾丸は心臓をわずかに外れ、心臓の下を貫通していた。手術は成功し、東条は不本意ながら一 命をとりとめてしまった。 夫が米軍病院で手当を受けて一命をとりとめたことなど知らない勝子夫人 は,福岡県田川郡の生家に向かった。
 東条の自決はなぜ未遂に終わったのか 東条の自殺未遂は、さまざまに陰口がたたかれた。やれ「本気で死ぬつもりはなかったんじゃないのか」とか、「自殺未遂は茶番劇だ」「陸軍大将のくせに拳銃の撃ち方も知らないのか」と、まさに罵声に近い批判が相次いだ。 しかし、東条は実際にピストルの引き金を引いている。仮に茶番劇だったとするなら、 もっと危険度の少ない方法を採っていたに相違ない。勝子夫によれば、東条は  終戦直後のある日、知人の医師に「心臓はどの辺か?」と冗談めかして聞いていたことがあるといい、のちに東条の弁護人の一人である塩原時三郎(東條内閨時の逓信院総裁)も、東条自身の話として法廷の日本人記者団に伝えている。「(東条は)終戦後の閑居中、自分のとるべき態度につき二つの立場を考えていた。第一は 自由に発言する機会を与えられたならば堂々と所信を披瀝して戦争勃発の真相を明らかにし、すべての責任をとるつもりで考えをまとめ、書き物もしていた。 反対にもし身柄を外国に連行され、サラシ者になるような場合を想像して自殺の準備にも万全を期した。まずピストルを肌身はなさず持ち、医師に心臓の上に墨で〇印をつけて貰っていた。風呂のあとでは書きなおしていた。軍刀も勿論手近に置き、更に愛用のパイ プには青酸加里をつめて万一にそなえた。 11日の当日まで、戦犯の予告をうけなかったので、まだ余裕があると思っていた。ジ―プの音がさわがしいので、窓をあけてきくと正式逮捕だという。それで初めて米軍に抑留されると知ったわけだ。風呂場に入り、水をかぶって体を清め、新しい軍服を着、書斎の錠をかけた。ピストルでかねてのマークを射った。倒れた。? ほとんど間髪を入れず応接間のベニヤ板をけって米兵が入って来たように思う。射ちそこなった。年をとっているのでマークのところの皮が少し下方に垂れ下がっているためか、 ピストルを逆に射ったので手許が狂ったらしい。こめかみがいいと思ったのだが、悲惨な死顏の姿を外国にもって行かれては恥だと考えた。 今日では初めの意志にもどって 一切のことを腹蔵なく話す覚悟である」(朝日新聞法廷記者団著『東京裁判』、東京裁判刊行会刊より)9月11日の自決直後、ピストルの発射音 を聞いたMPと特派員、それに畑山秘書たちは東条家の応接室になだれ込んだ。そのとき、 東条は途切れがちではあったが、はっきりし た口調で"遺言"を話している。「一発で死にたかった」とか「勝者の裁判は受けたくない」といった言葉を次々ロにし、夫人の手記によれば「東条は、内務省の怠慢をせめ、体面を保てるように処置すべきだ・・・・という意味の ことを口走っていたそうです」という。? こうした話や証言から推測するに、東条は 自分が逮捕されるときは事前に内務省(警察)から通報があるものと信じていたようなの だ。そうすれば、予定どおり身の回りの処置 をすべて済ませ、心静かに自決できる――そう考えていたらしい。? ところが米軍はいきなり"逮捕"にきた。勝子夫人は認めている。「東条にしてみれば、少佐級のMPがきて、まるで拉致されるみたいな形で、連行されるのががまんできなかったのでしょう。自分にふさわしい手続きをへて、堂々と進駐軍のなかへ行きたかったのではないか、と私には想像されますが、現実は、一片の連行状で逮捕 されていくと悟ったとき、東条は、かねての覚悟を実行に移したように、私は考えられてなりません」(前出「面影」) 夫人の手記は、このときの東条は、突然の逮捕劇への怒りと扱いの粗雑さにかなりの興奮状態にあったのではないか、そう言外に言っているように思える。そのためにピストルの引き金を引く手元が狂ってしまったに相違ない、と。 夫の東条が一命をとりとめたことなど夢想だにしない勝子夫人は、ピストルの発射音を聞いたあと、隣家の庭を出て親類の長谷川家に行き、さらに9月13日に、子供たちが身を寄せている福岡県の生家へと向かった。
 自殺者相次ぐ戦犯逮捕劇 東条自殺のニュースは地球を駆けめぐった。 日本の新聞も扱いは小さかったが報道した。 翌9月12日午後5時ごろ、東条内閣の海相だった嶋田繁太郎大将が東京・高輪の自宅でMPに逮捕され、横浜に連行された。戦犯第二号だった。東条の自決事件を聞いた嶋田は、次は自分であろうと覚悟を決めていたという。 嶋田家に20名近い米兵が押しかけたちょどそのころ、東京・牛込の第一総軍司令部では、司令官の杉山元元帥が四発の拳銃弾を胸に射ち込んで自決を遂げていた。陸相経験者の杉山は、第一次逮捕者にはリストアップされていなかったが、ソープ准将の第二次リストには入っていた。 杉山の副官から夫の自決を知らされた啓子夫人は、自宅(東京・世田谷)の仏間に一 人入り、純白の死装束をつけ、短刀で心臓を一突ききして後を追った。 東条、嶋田が逮捕されたことを知った日本政府は、重光葵外相を通じてマッカ―サ―司令部に「戦争犯罪人容疑者の拘束は日本側で行いたい」と申し入れ、了承された。米軍は容疑者のリストを日本側に渡し、逮捕・拘引を委ねた。
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動画「大森収容所で生活するA級戦犯」をご覧ください。東条英機や岸信介の姿は確認できました。
(了)

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