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阿波の局のブログ

〈いま願う―戦後77年― 信仰体験〉19 南の島テニアンの悲劇 抜粋 

2022年10月19日 外部ブログ記事
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🌸 「争いを引き起こすのは心。戦争は絶対にダメです」✨ 五十嵐奈美子さん(89)支部副女性部長日本から南へ2500キロ。太平洋の北マリアナ諸島の一つテニアン島で生まれた。同島は第1次世界大戦以降、統治権がドイツから日本に移り、政府はサトウキビ栽培の一大拠点として、破格の待遇で移民を募った。そこは「南国の楽園」のはずだった――。✨ テニアン島が見渡す限りのサトウキビ畑に開拓されていくのは、1920年代の後半から。移民の両親は、照りつける太陽の下でサトウキビ栽培に汗を流す五十嵐さんは同級生と海へ出かけたり、2人の兄と畑で追いかけっこをしたりして遊んだ。そんな楽園テニアンは、戦争によって地獄の島へと一変していく。✨ 1941年(昭和16年)太平洋戦争が始まる2人の兄は徴兵され本土へ島には飛行場が建設され、日本軍の拠点に兵隊が常駐し五十嵐さんの家も兵舎として提供された。✨ 44年6月。アメリカ軍による徹底した空爆と艦砲射撃が始まる。一日の大半を防空壕の中で轟音が鳴り響くたびに地面が揺れ、隙間から爆風が流れ込んだ。生きた心地がしなかった。13歳の少女は、新しい人生の始まりを予感した。アメリカ軍はサイパンの隣りにあるテニアン島に、1944年7月24日上陸を開始。歩兵第50連隊を主力とする日本軍は8月3日、南端のカロリナス山で玉砕した(毎日新聞社提供)✨ 翌月、4万のアメリカ軍が北部の海岸に上陸。日本軍の5倍の数の米兵住民も義勇隊として戦闘に五十嵐さんの父も、その一人✨ 父は食事が喉を通らずお茶を一杯だけ飲むと「行ってくるよ」母が無言で続く。振り向きざま父はじっと娘を見つめる何も言わず足早に家を出た。それが最後の姿となった。✨ 残された高齢者、女性や子どもは、南部のカロリナスへの移動を命じられた。2歳の妹を背負い、山の中へと入っていく。昼間は岩陰に隠れ、夜を待って歩き出す。真っ暗闇の中、息を殺して進む。大粒の雨が気力と体力を奪っていった。✨ 照明弾がパッと辺りを明るくすると、ヒューと音が迫ってくる。爆音とともに地面がめくれ上がった。“次こそ当たるかもしれない……”。砲弾が降り注ぐ中を、逃げ回るしかなかった。✨ 先刻まで一緒に逃げていたご近所さんの姿がない。来た道を戻ると、家族の母親が、脚の肉をえぐられ横たわっていた。近くには娘の亡きがら母親はそんな状態でなお、赤子に母乳をあげていた。✨ 何日も山の中をさまよい、岩場に追い詰められた。先の洞窟は、自決のための「玉砕場」になっていた。食料も水もない。限界だった。✨ 「私たちも死のうよ」母は強い口調で「子どもを殺せるわけがないだろう」母は歩き出した。「米兵に捕まったら、耳や鼻をそがれる」と聞いていた。“娘たちだけでも……”。母は決意を固めていた。✨ 白いガーゼを白旗の代わりに振り、米兵の前に歩み出た。アメリカ兵の表情は、想像と違って穏やかだった。✨ 「生きて虜囚の辱めを受けず」散々耳にした言葉がかすんでいく。“そんなことより水が欲しい”。収容所へ向かうトラックに揺られながら、諦めとと悔しさと、深い悲しみをかみ締めた。テニアン島の戦いは、日本軍の玉砕という形で終結集団自決した人も含め、民間人にも多くの死者を出した。✨ 終戦から半年後の46年2月。約1年半の収容所生活を終え、日本への引き揚げが始まった。生まれ育ったテニアン島を後にし、両親の故郷である福島県の会津へと向かう。✨ 列車の車窓から見える銀世界に驚いた。雪を見るのは初めて。「この雪が全部、お米だったらいいのにね」。日本でも苦しい生活が続いた。母は働きに、五十嵐さんが家事や妹の世話を担った。✨ 16歳で単身東京に。知り合いの家で、住み込みの家事手伝いとして働く。同世代が学校で学びに励み、友人と遊びに興じる姿を見るたび胸が痛む。何のために生きているのか分からなくなった。どこかへ逃げ出したかった。✨ 奪われるばかりで“私には何もない。父が戦死しなければ。学校に通えていれば。戦争さえなければ……”。自身の境遇を恨み孤独と、やり場のない怒りが胸の内にたまっていく。✨ その後、飲食店などを転々と27歳で、職場で知り合った同郷の人と結婚。幸せを得られると思った。だが、夫はろくに働かず、酒を飲んでは暴力を振るった。✨ ある日、アパートの隣の部屋からにぎやかな声が気になってドアの前で様子をうかがっていると、ふいにドアが開き、中に招かれた。創価学会の座談会だった。✨ “私の苦しみを知ってほしい”。温かな雰囲気に思わず本音がこぼれる。止まらなくなった。すると「この題目なら必ず幸せになれます!」差し出された手を握り返し、60年に入会した。✨ 今の状況から抜け出したい。無我夢中で御本尊に祈った。祈るほどに体の芯から熱いものが込み上げてくる。“逃げたい”命が“強くなりたい”に変わった。✨ 不遇を嘆くのはやめた学会活動の中に幸せを求め夫と離婚し、懸命に働きながら折伏に歩いた。✨ 原点がある。95年(平成7年)ハワイ文化親善交流団の一員としてハワイへ。訪問中の池田先生から“聡明な女性に”と励まされた。自らの使命を教わった気がした。戦争に苦しめられた悲運の人から、信強き女性へと生まれ変わること。師の言葉を人生の羅針盤として、広布のため、平和のために戦い続けることを誓った。✨ 戦争の体験を語ってきた。「ある日突然、命を奪われる。こんな理不尽はありません」証言は数冊の本にまとめられ、戦争の悲惨を後世に残す一助となっている。「池田先生が先頭に立って平和を築いてくださっている。弟子が続かないわけにはいかないですよね」89歳を迎えた今も、その決意は変わらない。✨ 平和とは、単に『争いなき平穏』を指すのではない。一人一人の内なる生命の変革なくして、揺るがぬ真の平和を築きゆくことはできないでありましょう(池田先生の言葉)✨「争いを引き起こすのは心だもの。戦争は絶対にダメです。常に自分を見つめて、心穏やかでなきゃいけない」✨ 毎朝、御本尊に向かい、胸中の師との対話から一日をスタートする。“きょうの地道な語らいが、平和への着実な一歩”であると確信している。

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